指輪を外したら、さようなら。
思ったよりも自分の声が店内に響いてしまい、ハッとした。
俺たちに注目する客や店員に向かって、頭を下げる。
「パイも食えないくらい、ツラいのか?」
一転して、囁くように言った。
千尋はわずかに首を振り、パイに手を伸ばす。
サクッという咀嚼音が聞こえた。
「頼むから、諦めて俺と結婚してくれ」
縋るような想いで言った。
違う。
縋っている。
俺を捨てないで欲しい、と。
千尋は、ひたすらパイを噛む。
瞬きの度に涙がポタッと落下するが、それを拭おうともせず、パイを食べる。
俺は、その姿を見ていた。
彼女が零す涙の意味に、不安や恐怖を感じながら、それでも一筋の希望にしがみついて。
ただ、審判の時を待つ。
サクッ、サクッ、サクッ……
最後の一口が千尋の口に姿を消し、飲み込まれた。オレンジジュースも、既に空。
おしぼりで手を拭いた千尋は、ふぅっと息を吐いた。
俺の頭の中では、ジョーズのテーマソングと、ベートーヴェンの天国と地獄、ドボルザークの新世界といった、妙に緊張感がある音楽が一斉に多重放送されている。
とにかく、いっぱいいっぱい、ってことだ。
「ちひ――」
沈黙に耐えかねて、彼女の名前を口にした途端、指輪の箱を押し返された。
どうしても、ダメなのか――!?
「はめて……」
「え……?」
かすれた声が聞き取りにくく、聞き返した。
千尋は、コホンと喉を鳴らすと、俺に向けて左手を差し出す。
「指輪、はめてよ」
確かな、言葉。
俺は、ケースから指輪を引き抜くと、彼女の薬指に通した。
千尋は、指輪をはめた左手をじっと見つめる。
指のサイズは知っていた。
ベタだが、眠っている彼女の指に紙を巻いて測った。何か月も前に。
指輪も、一緒にテレビを見ている時にスクエアタイプが好きだと言っていたから、間違いないはず。
「気に入らないか?」
「ううん。こういうの、好き」
「それって――」
「――一生、大事にする」
「一生?」
「……多分」
「は?」
「明日、失くしたらごめん」
「おいっ!」
「やっぱ、やめとく?」
かざした手から、彼女の顔が半分だけ覗く。
俺の反応を楽しんでいるのか、試しているのか。
「やめるわけねーだろ」
「明日、なくしても?」
「次は、ボルトだけど」
「なに、それ」
「昔のドラマであったろ。花嫁が工事現場のボルトをはめるの」
タイトルが思い浮かばない。
『90年代のドラマ特集』みたいので、見た気がする。80年代だったろうか。
「知らないよ」
「なんかで見たと思ったんだけど」
「ってか、ボルトとか、ヤだし」
「じゃ、失くすな」
「新しいの、買ってくれないの?」
「買わねーよ。んな金があったら、子供のために貯めるべきだろ」
「……そうだね」
千尋は微笑むと、再び指輪を見つめる。
「私、無職になっちゃったし」
「今は仕事より、体調管理だろ」
「けど、お金は必要でしょ」
「俺が稼ぐから、大丈夫だ」
「……そうだね」
千尋は手を下ろし、満面の笑みで俺を見た。
「浮気したら、再起不能にしてやるから」
「大丈夫だ。お前にしか機能しないから」
空になった指輪ケースの蓋を閉め、とっととポケットに戻した。
もう返せないからな、と言わんばかりに。
しばらく、千尋は指輪を眺め、俺は千尋を眺めていた。
今日食べたパイの味を、生涯忘れることはないだろうと思った。