指輪を外したら、さようなら。
みんなで集まった十日後、あきらと龍也は釧路へと引っ越した。
釧路は札幌よりも気温が低いと、あきらからのメッセージにあった。
そのひと月後、陸が渡英した。
見送られたくないと、空港からのメッセージでそれを知った。
私は大和の事務所で働き始めた。
比呂も賛成してくれた。
大和のお父さんもお母さんも温かく迎えてくれた。
そして、九月。
私は女の子を出産した。
分娩室で、比呂はずっと私の手を握ってくれていた。
真っ赤な顔で泣く娘に、初めての母乳をあげると、小さな小さな手で必死にしがみつく。まだうまく吸えなくて、それでも本能で口を動かし、やっぱりうまくいかなくて、泣く。
可愛くて、愛おしい。
数時間前まで私のお腹の中にいたのに、今は私の腕の中にいる。
不思議な気分だった。
「千尋?」
ぼんやりと娘を見つめていたら、比呂に呼ばれてハッとした。
口はもごもごさせているけれど、すっかり寝入っている。
「お母さんも身体を休めましょう。起きたら、また連れてきますね」
そう言って、助産師さんが娘を連れて出て行った。
「お父さんとお母さんは?」
「うん。また明日来るって」
一カ月前から、比呂の留守中はお母さんが来てくれていた。だから、昨日の夕方、陣痛が始まった時も慌てずに準備できた。
いよいよ生まれそうだと比呂が連絡してくれて、それからすぐに二人揃って駆け付けてくれた。
生まれた私を抱けなかったお父さんは、孫を抱くのを怖がって、目を細めて見ているだけだった。
「うちの親にも連絡しといた。写メも。来たがってたけど、祖母ちゃんもいるから、落ち着いたらこっちから行くって言っといたよ」
「うん」
三か月ほど前、私はようやく比呂の実家に挨拶に行った。
ご両親は、離婚が成立していないまま私を妊娠させた比呂を許して欲しいと頭を下げた。
息子を誑かして離婚に追いやったと責められても仕方がないと思っていた私は、ご両親への申し訳なさに胸が痛んだ。
お祖母ちゃんは、私の手を取って『元気な子を産んで、比呂を幸せにしてやってね』と笑った。
両家の顔合わせも出来ていないから、娘を連れて行く時には、私のお父さんとお母さんも一緒に行く予定だ。
「で? あきらは?」と、比呂がベッドに腰かけて聞いた。
「明日、来るって」
明日は土曜日だ。
龍也と揃って来てくれるだろう。
「麻衣と大和んとこは?」
「日曜日に来て欲しいって、言っといた」
「そっか」
比呂は、OLCのみんなとすっかり打ち解けて、私抜きでも大和と飲みに行ったりしている。
仕事の話で盛り上がる度に、大和に事務所に来て欲しいと誘われて、比呂もまんざらでもなくなっているようだ。
「ほら、もう休めよ」
「ん……」
私はゆっくりと布団の中に潜った。
「比呂は? 帰る?」
「帰りたくねーな……」
いつになく肩を落として背を丸める比呂の手に、そっと触れる。
「どうしたの?」
「帰ったって、一人だし」
背を向けたまま、比呂が私の手を握り返す。
「冷蔵庫の中、片付ける暇がなかったから、お願いね」
「ん……」
「比呂?」
「ん?」
「私、幸せだわ」
比呂が首を回して、私を見た。
「すごく……幸せだわ」
絶対に手に入らないと思っていた幸せに、包まれている。
幸せを諦めて、自ら放棄していた時には、それがこんなにも尊くて満たされるものだとは知らなかった。
「キスしてもいいか?」
そう言って私を見下ろす彼は、なぜか不安そうで、思わず笑ってしまう。
昨日の朝までは、当たり前のように『行ってきますのキス』をしていたのに。
「どうぞ?」
比呂がおずおずと身体を屈めて、触れるだけの、ほんの一瞬触れるだけのキスを落とした。
「ありがとう、千尋」
「どうしたの?」
私の睫毛が濡れたのは、彼の睫毛が濡れていたから。
「お前を諦めなくて、良かった――」
疲労と安堵から、私は閉じた瞼を持ち上げられず、そのまま深い眠りに落ちた。