指輪を外したら、さようなら。
「もうっ! 遅い」
ゾッとした。
一年振りに顔を合わせた別居中の夫に、さも昨日の朝は同じベッドにいたかのような妻の顔。
憂鬱で堪らなくて、新幹線が停車する度に降りて引き返そうと思った。
何が悲しくて、別居中の妻の妹の結婚式に出なけりゃならない。
しかも、俺たちが別居中であることは誰も知らないから、ホテルの部屋は一緒。
離婚に向けた話し合いが出来ればいい。
けれど、出来なければ、拷問のような時間。
千尋の元へ帰りたい――。
美幸の顔を見た瞬間、そう思った。
「ほら、早く!」
「あら、比呂くん。今、到着?」
美幸の母親、つまり俺の義母が記憶のままの穏やかな笑顔で言った。
「ごめんなさいね、忙しいのにわざわざ」
「いえ。すみません、ご無沙汰して」
「挨拶はあと! 比呂、急いで」
美幸は俺の腕を掴むと、エレベーターに引きずって行った。が、エレベーターの扉が閉まるなり、突き放すように腕を解いた。
「わかってると思うけど、余計なことは言わないでよ」
俺はフッと鼻で笑った。
「お義母さんに見せてやりたいよ、その変貌っぷり」
「私たちの別居を知って悲しむのは、私の親だけじゃないわよ」
美幸は淡い緑の着物の裾を整え、窓側のベッドに腰を下ろした。
俺は持って来た礼服を伸ばし、壁側のベッドに広げた。わざと時間ギリギリに到着したから、シャワーを浴びる時間がないことはわかっていた。
「別居の理由を知って悲しむのは、お前の親だろ」と言いながら、俺は服を脱いでいく。
一年半前までは貞淑な妻よろしく、俺の脱いだ服をハンバーにかけてくれていた美幸は、窓の外を眺めたまま指一本動かそうとしない。
別居までの二年半が演技だったと思うと、女性不信になりかけた。ならなかったのは、千尋のおかげだ。
「家を出たのはあなたよ。それに、理由はどうあれ、あなただって別居生活を楽しんでるじゃない」
「ふざけるな。あんな状態で一緒に暮らせるわけがないだろう。お前があの場で離婚届に判を押していたら、今頃は――」
「再婚してた?」
再婚――?
そうだ。
俺は、一刻も早く美幸と離婚して、千尋と再婚したい。
セックスの後で叩き起こされることなく、毎晩千尋を抱き締めて眠り、抱き締めたまま目覚めたい。
だが――――。
『私たちの関係は、比呂が奥さんと別れるまで』
千尋の言葉を思い出す。
『比呂のことは好きよ。薬指に指輪をしている限りはね』
くそっ――!
「お前に騙されて、再婚なんて考えられるかよ」
俺は、心にもないことを言った。
「けど、この一年間は離婚をせっついてこないじゃない。この状況を理解してくれる女がいるんでしょ? なら、このままでもいいじゃない」
「電話もメッセージも無視してるのはお前だろ。大体、なんで離婚を拒むのか――」
「その話は後にして。式が始まる!」
美幸は立ち上がり、そそくさとバスルームに向かった。鏡の前で最終チェックでもするのだろう。俺はネクタイを締め、ジャケットを羽織り、ベッドの上のスマホを手に取った。