指輪を外したら、さようなら。
「なぁ」

『なに?』

 千尋の声が揺れている。恐らく、寝室に移動しているのだろう。

 真っ裸で台所から寝室まで歩く千尋を、思い出した。下半身が疼く。

「お前は俺が妻と同じ部屋に泊まるの、何とも思わないのか?」

『……』

 聞かなきゃ良かった。

「やっぱ――」

『――どう答えてほしいの?』

「え?」

『私に嫉妬させたいの?』



 嫉妬……。



 そうだ。

 俺は千尋に嫉妬されたい。

 嫉妬されるくらい、愛されたい。

「俺、指輪してるぞ」

『え?』

「指輪をしてる間は、俺の事好きなんだよな?」

 自分で言って、惨めだ。

 だが、そうでも言わなきゃ、千尋は素直にならない。『愛人』という鎧を脱ごうとはしないから。

『好きよ。奥さんを抱いたらムスコを再起不能にしてやりたいと思うくらいには』

「おっかねぇな」

『今頃気づいたの?』

 千尋がクスクス笑っている。



 ああ、顔が見たい。



「千尋、好きだよ」

『比呂』

「どうしたら、お前の本音を聞けるんだろうな」

『比呂、酔ってるの?』

 ゴソゴソッと布が擦れるような音が聞こえた。千尋がベッドに入ったのだと、わかった。

「酔いたい、気分だよ」

 千尋のベッドに帰りたい。

『早く寝なよ』

「なぁ、好きだって言えよ」

 少しくすんだ白い天井の見ながら、言った。

「嘘でもいいから」

『ホント、どうしたの?』

 理想の妻だと思って結婚した女には手酷く裏切られ、理想の愛人だと思っていた女こそ妻に相応しかった。

 妻は離婚を拒み、愛人は結婚を拒む。

 俺は現在(いま)の立ち位置から、一歩も動けない。

 情けなくて涙が出る。

『好きよ、比呂』

 涙が引っ込んだ。

『好きよ』

 ブツッと一方的に通話が終了した。

 すぐにメッセージが届いた。

『ぴょん〇ょん亭の冷麺買って来て』

 俺はウサギが投げキッスをしているスタンプを送った。

 千尋からは、無表情のくまのスタンプ。それから、布団に入って眠るくまのスタンプ。

 俺はウサギが『おやすみ』と手を振っているスタンプを送った。

 千尋の『好きよ』って声が、頭の中で反芻する。

 千尋は、嘘はつかない。

 俺に期待を持たせるようなことも、言わない。

 その千尋が『好き』と言った。

 それだけで、今夜はいい夢を見られそうだった。
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