指輪を外したら、さようなら。
「なので、新居もその頃に間に合わせて完成させたいんです」
「お式の準備と重なって大変でしょうけど、社を上げてお手伝いさせていただきますので」
「よろしくお願いします」
そんなお決まりの挨拶で締めくくり、亘は比呂が用意してきた契約書に署名捺印をした。
「では、失礼致します。本日は、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。あ! これをどうぞ」
亘はジャケットの内ポケットから取り出した紙の束から二枚抜いて、比呂に差し出した。
「レストランとラウンジの割引券です。お二人には敷居が高いでしょうけど、せっかくお近づきになれたんですし、ぜひご堪能ください」
「ありがとうございます。ぜひ、利用させていただきます」
はらわた煮えくりかえってるだろうに、比呂は営業スマイルで受け取った。さすがだ。
絶対に使うもんか、と思った。
「ぜってー使わねぇ!」
車に乗り込むなり、そう言って比呂が割引券をくしゃくしゃに丸めた。
「なんだ、あれ。新居傾かせっぞ!」
「物騒なこと言わないの」
「つーか、なんなんだよ! アレ、お前の元カレとか言わねーだろうな。俺、あんなんと同レベルとか立ち直れねーぞ」
「やめてよ。気持ち悪くて食事どころじゃなくなるから」
「同感だな。聞きたいことは山ほどあるが、まずは美味いモン食おう。割引券なんかなくても、俺だって――」
「変なことで張り合わないでよ。普通に美味しいものを食べさせて」
いつもなら、二人きりで食事をしたりしない。誰に見られるかわからないから。
同僚と食事をするくらい、既婚未婚に関わらず在り得ることだ。けれど、勘のいい人ならわかってしまうだろう。
そう警戒してしまうほど、今の私と比呂が『他人』に見えないことは自覚していた。
けれど、心のどこかで思っていた。
誰にも見られないかもしれない。見られても、仕事帰りに同僚が食事しているだけだと思われるかもしれない。
見られても構わない――。
よぎった思考に、笑えた。
「なに、笑ってんだ?」
窓の外を眺めていたとはいえ、息を弾ませていれば気づかれても当然だ。
「別に」
「気持ちわりー。言えよ、気になる」
比呂は横目でチラッと私を見て、すぐに正面に視線を戻す。ちょうど帰宅ラッシュで、道は混雑していた。その上、いちいち信号に捉まってしまう。
「私今日、運勢最悪だったろうなと思って」
「占いなんか信じるのか?」
「ううん? けど、あんな奴に会っちゃうんだから、きっと星座占いでも血液型占いでも最下位確実よ」
「なるほど。じゃ、食後は俺が最高の気分にしてやろう」と言いながら、比呂が片手をハンドルから離して、私の手を握った。
「セックスはしないよ」
「言ってろ」
窓に映る比呂を眺めていた。
握られた手が熱い。
明日の服、どうしよう。
無意識に彼の手を握り返していた。