指輪を外したら、さようなら。

「瑠莉は?」と、亘が聞いた。

「電話中です」

「そ」

 私は元いた場所に行こうと、比呂の背後を通った。が、ちょうど真後ろで立ち止まることになる。

「今、お前との昔話をしてたんだよ。今と変わらずいい女で、エロかったって話」

 なるほど。

 比呂が身体を震わせている原因が分かった。

「大河内さんに私のエロい姿を見せた記憶、ないんですけど?」

 つとめて冷静に、言った。

「記憶力、悪いな。あるじゃん、体育倉庫で」

 足のつま先から、炎に包まれるような熱を感じた。

 どんなに忘れたくても忘れられない記憶。

 ずっと、忘れたフリをして生きてきた。

 汗と埃、カビの嫌な臭い。

 授業で使うマットの上に身体を押し付けられて、動けない。

 口を手で塞がれ、私は足をバタつかせている。

『愛人の子は所詮、愛人の子だ。母親のように、足を開いてよがってりゃいーんだよ!』

 そう言って、私の足は大きく開かれた。

「そういや、お前の母親は元気か?」

 急に話を変えられ、私はひゅっと喉を鳴らして何とか酸素を取り込んだ。

「お陰さまで」

「相変わらず、誰かの愛人やってんのか?」

「――っ!」

「愛人って年でもねーか。じゃ、死にかけた年寄りの下の世話でもしてる? お似合いだよな。好きだもんな、下の世話」

「大河内さん、そろそろ――」

「――こいつの母親、昔俺の親父の愛人だったんですよ」

 比呂の言葉を遮って、亘が言った。

「俺と俺の母親に追い出されるまで、秘書兼愛人で。で、娘は娘で俺を手玉に取ろうって跨ってきて。母子(おやこ)揃ってスキモノなんだよな?」

 比呂の顔は、見えない。

 金城くんは目を丸くして、私を見た。

「ま、俺は相手にしなかったけど。いい身体してるから、ちょっと遊んでもいいかなって思ったけど、どんな病気を持ってるか――」

「――黙れ!」

「比呂! ダメっ!!」

 遅かった。

 比呂は目の前のコーヒーを亘の顔面にお見舞いし、熱さに怯んだ彼にとびかかった。胸ぐらを掴まれ、腹に膝をたてられ、亘は抵抗できずにソファに押し倒された。

「やめてっ!」

 ゴッッ! と鈍い音。

 比呂の拳が垂直に亘の顔面を捉えた。

「金城くん! 止めて!!」

 こんな、男同士の取っ組み合いの現場に居合わせたのは初めてだが、映画やドラマで見たら、そばにいる女が何も出来ずに泣いているだけなんて、有り得ないと思った。

『私の為に喧嘩しないで』なんて、自分に酔った女の戯言だと思っていた。

 けれど、泣きこそしなくても、私は動けなかった。

 金城くんが比呂を止めようと、背後から脇に腕を入れて亘から引き離そうとするが、比呂より僅かに華奢な彼には荷が重かった。

「比呂! やめて!」

 金城くんの前だというのに、比呂を名前で呼んでいることにも気づかず、私は叫ぶことしかできなかった。

 綺麗なストレートが数回決まり、亘の顔は血まみれ。鼻か唇か、両方が切れているようだ。

 私は咄嗟に周囲を見て、花瓶を手に取った。ピンクのバラを引っこ抜き、二人に投げつける。それから、花瓶の水を浴びせた。

「もう、やめて!」

 比呂の手が宙で制止した瞬間、ドアが開いた。

 瑠莉さんの悲鳴がフロア中に響く。

 私の厄日は、今日だった。
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