CROSS LOVELESS〜冷たい結婚とあたたかいあなた
(私は、何も見なかった…そうよ。気のせいだ…あれは玲さんじゃない)
きっと、きっと他人の空似だ。だって彼は沢村家の嫡男で、政治家になるべき方。女性関係のスキャンダルはご法度のはずだもの。きっと…暗かったから見間違えたのね。
「あ……」
ホテルに戻る途中、玲さんを見かけた。
何やら欧米のビジネスマンらしき人と、早口でやり取りをしてらっしゃる。
(……ドイツ語。しかもかなり洗練された発音だわ)
大学では英語の他に、フランス語とドイツ語を学んだ。中国語とスペイン語も語学学校で勉強をしている。玲さんの役に立ちたいから。
こちらに気付いたのか、玲さんの足が止まる。
するとビジネスマンの目もこちらへ向いたから、落ち着けと自分に言い聞かせ、一歩足を踏み出した。
『こんばんは』
『やあ、こんばんは…君は?』
『はじめまして。わたくしは、沢村 薫と申します』
私が淑女の挨拶をしながら名乗ると、ビジネスマンの方は軽く驚いた顔をされた。
『レイ、やはり君の妻か!噂どおりに優秀なワイフじゃないか』
(優秀な妻…?一体何の話だろう)
『ええ、彼女はずっとオレのために努力してきてくれたんです。だから、オレもそれに応えねばなりません』
(えっ…)
いきなり、玲さんは私の肩に手を回してぐいっと抱き寄せる。あまりにも唐突な出来事に、キャパオーバーで頭が真っ白になった。
(れ、玲さんったら…い、いきなり…あれ?)
抗議しようと顔を上げると、彼の喉元にうっすらと傷あとがあるのが見えた。なにかで切れたような…ずいぶん古いものだ。
それに。
彼の薫りに包まれた瞬間、心臓が狂いだした。
(この薫りに……感触……いつか、どこかで……)
思い出そうとしたのに、腕に力が込められて。何も考えられなくなってしまった。