さつきの花が咲く夜に
プロローグ
――下を向いて歩くのが癖になったのは、
いつだったか?
狭い視界の先に映る、履き古したパンプス
をぼんやりと眺めながら、満留はふと考える。
考えれば、どうしたって病床に臥している
母の顔が目に浮かんでしまう。そして、言い
ようのない不安に胸が苦しくなり、唇を噛ん
でしまうのも、いつの頃からの癖だった。
満留は胸に押し寄せる黒いものを吐き出す
ように、長く息をついた。
心のどこかで、母との別れはもっとずっと
先のことだと思っていた。けれど、この世に
ただ一人の家族である母、芳子は不吉な影を
瞳に宿し、いまこの瞬間も病床に臥している。
どうして医学はこんなにも発展していると
いうのに、母の病は治らないのだろう。
どうしてもっと早く、母の病に気付けなか
ったのだろう。そんなもどかしさに心を落ち
着かなくさせながら、満留は京山国立病院と
同名の国立大学を結ぶタイル張りの通路を
進んでいった。
夏の匂いが微かに残る夜風が、さらりと頬
を撫でつける。その風にゆるりと視線を上げ
れば、立体駐車場の下にある駐輪場と病院の
間を抜ける通路の先に、緑豊かな中庭が見え
てくる。満留は暗がりの中に、木の幹を囲う
ように設えたウッドベンチに腰掛ける背中を
見つけると、無意識のうちに頬を緩めた。
そっと歩み寄り、声を掛けようとする。
と、声を掛ける前にその人が振り返り、
まるで「見つけた」と言わんばかりの笑みを
向けてきた。満留はやわらかな笑みにほっと
しながら、彼の隣に腰掛けた。
「お疲れ。今日は何買ってきたの?」
「今日はねぇ……ええっと」
座るなりそう聞いてきた満に、満留は帆布
のトートバッグの中をガサゴソと探る。そう
して、黄色い値引きシールが貼りつけられた
あんパンを取り出すと、恥ずかしそうに肩を
竦めた。
「またそれだけ?」
掌に載せられた小さめのあんパンを見つめ、
満が口をへの字にする。予想通りの反応に
満留はちろりと視線を外し、「だって」と拗ね
たように言った。
「見切り品のワゴンに残ってるのって、
いっつも同じのばかりなんだもん。あとは、
シュガーラスクとか豆大福とか」
「それじゃ晩飯にならねーよな」
「でしょ?そうなるとこれが一番ご飯ぽい
って言うか。腹持ちがいいと言うか」
もっとも、四割引きのあんパン一つかじっ
たところで空腹は満たされないのだけれど。
そう思いながらパンの袋を開けようとした
満留に、満は「ホント、しょうがねぇなー」
と、ぼやくように言って、鞄から何かを取り
出す素振りをした。その所作に、満留はきら
きらと目を輝かせ、ごくりと唾を呑む。
今日は何が出てくるのだろうと手元を見つ
めれば、満は得意そうに口角を上げ、「はい」
とそれを差し出してくれる。
「あ、ありがとう」
ころん、と満の手から転がってきたそれは
ラップに包まれたまん丸のお握りで……まだ
作ったばかりなのか、ほんのりと温かかった。
街灯の白い灯りに照らされた満を見つめる。
木の葉がさらさらと風にそよぎ、夜の中庭
がひっそりと二人を包み込んでくれる。
「早く喰えって」
照れたようにそう言って横を向いてしまっ
た満に頷くと、満留はそっとラップを剥した。
ぱくりと、大きな口でお握りをかじった
満留の視界の先には、今日も朱赤色のさつき
の花が咲いていた――。
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