さつきの花が咲く夜に
「妹崎先生、事務的なことはからきしです
からね。研究以外のことに時間を割くのが勿
体ないみたいで」
備品の購入申請や補助金・研究費の申請。
旅費の請求や書籍の発注書類など、教員が
提出しなければならない書類は意外に多い。
けれど、それらの書類が妹崎から不備なく
提出されることは少なく、満留はその度に彼
の元へ足を運んでいるのだった。
「桜井さんの用事増やしちゃって申し訳な
いんだけどさ、ちゃちゃっと妹崎先生のとこ
ろに行って来てくれるかな?」
片手で拝むようにして門脇が言うので満留
は、「はい」と快く引き受ける。ちょうど、
備品管理室に教卓用の椅子を取りに行かなけ
ればならなかったのだ。そのついでに、書類
を届ければその場で直してもらえるかも知れ
ない。
「じゃあ、すぐに行って来ますね」
そう言ってデスクに向かおうとした満留を、
なぜか門脇はちょいちょい、と、手招きした。
人目を気にしながら190はあろうかという
長身の身体を折り曲げ、耳元に顔を近づけた
彼に、満留は目をぱちくりとする。
そうして聴こえてきたその言葉に、さらに
大きく目を見開いた。
「僕が行くよりも、桜井さんが行った方が
先生も喜ぶだろうからさ。いまは空きコマで
部屋にいると思うけど、そんなに急いで戻っ
て来なくてもいいからね」
ヒソヒソと耳元で語られた内容は思いも寄
らないもので、満留はきょとんとした顔で門
脇を見上げる。その満留にしたり顔で頷くと、
門脇は急かすように「頼んだよ」と言って
くるりとコピー機を向いてしまった。
「……はあ」
満留は彼の背中に風船の空気が抜けたよう
な返事をすると、首を捻りながら書類を手に
取り、再び教務課を出ていった。
午後の講義が始まった校内は寂然としてい
た。時折り教員の声が微かに漏れ聞こえるだ
けの廊下を進み、エレベーターの前に立つ。
そして「さっきのアレは、どういう意味だ
ろう?」と、ぐるぐると思考を巡らせながら、
満留は降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
何枚かの書類が挟まれたクリアファイルを
見やる。こうして彼に書類を届けるのは何度
目だろうかと記憶を辿れば、このエレベー
ターを降りた瞬間、彼とぶつかったあの日を
思い出した。
あれは妹崎がこの大学に着任して間もなく
の、半年ほど前のことだったろうか?
やはり、備品管理室に用事のあった自分は
エレベーターに乗り、その部屋がある階へと
向かっていたのだ。ちょうどその頃、母の病
が悪化し始めたこともあって、下を向いて歩
くことが多かったのだと思う。
だから、「ポン」と、間の抜けた音をさせて
ドアが開いた時も、前に人が立っているとは
露ほども思わず、満留はエレベーターを降り
てしまったのだった。
からね。研究以外のことに時間を割くのが勿
体ないみたいで」
備品の購入申請や補助金・研究費の申請。
旅費の請求や書籍の発注書類など、教員が
提出しなければならない書類は意外に多い。
けれど、それらの書類が妹崎から不備なく
提出されることは少なく、満留はその度に彼
の元へ足を運んでいるのだった。
「桜井さんの用事増やしちゃって申し訳な
いんだけどさ、ちゃちゃっと妹崎先生のとこ
ろに行って来てくれるかな?」
片手で拝むようにして門脇が言うので満留
は、「はい」と快く引き受ける。ちょうど、
備品管理室に教卓用の椅子を取りに行かなけ
ればならなかったのだ。そのついでに、書類
を届ければその場で直してもらえるかも知れ
ない。
「じゃあ、すぐに行って来ますね」
そう言ってデスクに向かおうとした満留を、
なぜか門脇はちょいちょい、と、手招きした。
人目を気にしながら190はあろうかという
長身の身体を折り曲げ、耳元に顔を近づけた
彼に、満留は目をぱちくりとする。
そうして聴こえてきたその言葉に、さらに
大きく目を見開いた。
「僕が行くよりも、桜井さんが行った方が
先生も喜ぶだろうからさ。いまは空きコマで
部屋にいると思うけど、そんなに急いで戻っ
て来なくてもいいからね」
ヒソヒソと耳元で語られた内容は思いも寄
らないもので、満留はきょとんとした顔で門
脇を見上げる。その満留にしたり顔で頷くと、
門脇は急かすように「頼んだよ」と言って
くるりとコピー機を向いてしまった。
「……はあ」
満留は彼の背中に風船の空気が抜けたよう
な返事をすると、首を捻りながら書類を手に
取り、再び教務課を出ていった。
午後の講義が始まった校内は寂然としてい
た。時折り教員の声が微かに漏れ聞こえるだ
けの廊下を進み、エレベーターの前に立つ。
そして「さっきのアレは、どういう意味だ
ろう?」と、ぐるぐると思考を巡らせながら、
満留は降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
何枚かの書類が挟まれたクリアファイルを
見やる。こうして彼に書類を届けるのは何度
目だろうかと記憶を辿れば、このエレベー
ターを降りた瞬間、彼とぶつかったあの日を
思い出した。
あれは妹崎がこの大学に着任して間もなく
の、半年ほど前のことだったろうか?
やはり、備品管理室に用事のあった自分は
エレベーターに乗り、その部屋がある階へと
向かっていたのだ。ちょうどその頃、母の病
が悪化し始めたこともあって、下を向いて歩
くことが多かったのだと思う。
だから、「ポン」と、間の抜けた音をさせて
ドアが開いた時も、前に人が立っているとは
露ほども思わず、満留はエレベーターを降り
てしまったのだった。