さつきの花が咲く夜に

 「満留、気を付けて帰るのよ」
 
 「はーい」

 横断歩道の手前で手を上げている客を見つ
けると、母のタクシーは滑るように走り始め
る。いつも笑顔で明るい接客を心がける母は、
乗客からも評判が良かった。

 「ねぇ、満留ちゃん。うちのお婆ちゃんが
この間満留ちゃんのお母さんのタクシー乗っ
たんだけどね。他のタクシーよりも早く病院
に連れてってくれたって、褒めてたよ」

 学童には行かないけれど、途中までいつも
一緒に帰っている千佳枝ちゃんが隣から顔を
覗く。満留はその言葉に「本当?嬉しいっ」
と頷くと、目をきらきらと輝かせて言った。

 「お母さんね、裏道たくさん知ってるんだ。
だから、ちょっとでも道が混んでると、空い
てる裏道をスイスイ走っちゃうの。送迎のお
電話がかかってくると、『桜井さんがいい』
っていうお客さんもいるんだって」

 実際、女性ドライバーの需要が高まってい
ることもあって、母が指名されることは時々
あった。昨今の、女性専用車両や休憩所を設
けるという社会的な流れも、女性ドライバー
の指名に関係しているのかも知れない。

 国土交通省が「女性ドライバー応援企業」
の認定制度を創設したこともあり、少しずつ
母のようなドライバーは増えているが、実は
女性が働きやすい環境であることはあまり周
知されていないようだった。

 お客さんを乗せた母のタクシーが、数珠つ
なぎの車の波にのまれ遠ざかってゆく。満留
は水色のリボンネクタイがよく似合う母の姿
を思い浮かべ、ひとり頬を緩めた。

 真っ青な空に溶けるような水色は、満留に
とって『母の色』で、ランドセルの色を水色
にしたのもそれが理由だった。





 中学を卒業し高校へ上がると、満留の日常
は緩やかに色を失っていった。高校に上がる
タイミングで社宅を出て、母とマンションに
移り住んだのだ。満留の大学受験を見据えて
の引っ越しだったが、母の勤務形態も日勤か
ら夜勤ありのシフト制へと変わり、生活が様
変わりする。マンションは社宅から歩いて
二十分ほどの場所だったけれど、高校生活の
忙しなさも手伝って、満留が中谷さんのおば
さんちに行くことも、朝、母の出庫を見送る
こともなくなってしまった。

 「お母さん頑張って働くから、満留も行き
たい大学に行けるように、しっかり勉強する
のよ」

 夜勤に向かう休日。
 玄関で見送る満留を振り返ってそう言った
母に、満留は「わかった」と頷く。昼の二時
から翌日の朝十時までが勤務となる夜勤が増
えたことで、満留と母の生活はすれ違うこと
が多くなった。

 初めて与えられた四畳半の一人部屋はどこ
となく寂しく、大好きな水色のカーテンを掛
けてもなぜか寒々しく感じてしまう。高校生
活は楽しく、それなりに友達もいるけれど、
心の中にいつも隙間風が吹いているような、
そんな感覚だった。
< 35 / 106 >

この作品をシェア

pagetop