さつきの花が咲く夜に
 「まーるっ」

 学校帰り、遠く知らない街を歩いていると、
母の呼ぶ声が聞こえた気がして、ひとり振り
返ることがある。けれど、そこには銀杏並木
も母の笑顔もなく、満留は小さく息をつくと
また歩き出すのだった。



――あのころに戻りたい。


 そんな想いが心の奥底にあるのに、なぜか
あの場所に足を向けることが出来ずにいる。

 その理由は「忙しいから」というだけでは
ないはずだった。

 「寂しい」

 「会いたい」

 そう思っても、満留は自分から手を伸ばす
ことが出来ないタイプなのだ。だから、小学
校の友達も、中学校の友達もほとんど残って
はいない。多くの人に出会っても、『時が重
なる時期』を過ぎれば、ほとんが『二度と
会わない人達』に変わってしまう。

 きっと中谷のおばさんだって、おじさんだ
ってそうなのだろう。そうやって誰もが『そ
の時』を通り過ぎて、生きてゆくものなのだ。


――大人でもなく。

――子供でもなく。


 あやふやな成長の只中にいた満留は、そう
思うことで寂しさに蓋をして、ひとり、自室
で過ごしたのだった。




 父がいない本当の理由を母が話してくれた
のも、そのころだった。

 それまでは、「お父さんは満留が生まれる
前に事故で死んでしまった」という風にしか
聞かされていなかったのだ。その話も決して、
嘘ではなかったのだけれど……。

 母の口から聞かされた真実は、まだ大人に
なりきっていない満留には衝撃だった。母は
何かを吹っ切るように小さく息をつくと、徐
に口を開いた。

 「実はね、お母さんが満留を妊娠した時、
お父さんには家族がいたの。奥さんと、お子
さんが一人。もちろん、お母さんはそのこと
を承知でお父さんとお付き合いしていたのだ
けど……。でもね、世間一般で言われるよう
な『不倫』という関係じゃなかったのよ。
お父さんは奥さんと離婚するつもりで別居し
ていたし、離婚調停が始まって二年も経って
いたし。お母さんが出会ったのはそんな時で
ね、お父さんは毎週実家からお母さんの
アパートに通っていたの」

 たった一枚しかない父の写真をそっと撫で
ながら、母が微笑を浮かべる。春陽を浴びて
白く咲き誇る桜木の前に立つ父は凛々しく、
向けられる笑みはどこまでもやさしい。

 満留は一度も「父」という存在を知ること
はなかったけれど、まるで傍にいるかのよう
に「お父さんはね」と母が語るので、満留は
目に見えないだけでいつも父が傍で見守って
くれているような、そんな感覚で今日まで過
ごしてきたのだった。

 「じゃあ、お父さんはどうして?」

 父の写真を見つめたままの、母に問いかけ
る。窺うように顔を覗けば、母は悲しみに瞳
を揺らして、小さく頷く。その先の話を聞く
のは、少し勇気がいったけれど、父に家族が
いたことを知ってしまった以上、満留は何も
知らない顔をして生きることは出来なかった。
< 36 / 106 >

この作品をシェア

pagetop