さつきの花が咲く夜に
 母が息を吐く。
 その息は心なしか、涙に湿っている。

 「お父さんはね、線路の補修や点検をする
軌道整備のお仕事をしていたの。満留が小さ
いころは、電車のお仕事をしてたって話した
ことがあったわよね。お父さんが亡くなった
その日も、いつもと同じ朝だったの。『芳子、
今晩は酒の肴に葉唐辛子の佃煮を作っておい
てくれ』って、あの人は笑って家を出た。
だからね、夕方になって警察から電話が来た
とき……お母さんは信じなかった。『電車に
轢かれて、亡くなりました。自殺ということ
で、いまはご家族が傍にいます』って、そん
な『嘘』を淡々と言うんだもの。だからお母
さん、警察の人に言ったわ。『そんなこと
あるわけない。事故ですよね?何かの間違い
ですよね?』って。だって、満留が生まれる
ことを一番喜んでたのは、あの人なんだから。
どんなに時間がかかっても必ず家族になろう
って……そう、言ってくれたばかりなんだ
から」

 強い眼差しで一点を見つめながら首を振る
母の頬は、涙に濡れていた。母の涙を見るの
は、生まれて初めてだった。以後、母の涙を
見た記憶がないのだから、それが最初で最後
なのかも知れない。

 満留は強く唇を噛みしめると、母の手を握
って頷いた。

 「だからね、お父さんは『事故』で亡くな
ったの。絶対に自殺なんかじゃない。絶対に」

 吐き出すようにしてそう言った母に、満留
はやはり頷くことしか出来ない。声に出して
しまえば涙に揺れてしまいそうで、満留は
もう一度大きく頷いた。

 結局、死の真相というのは、残された者が
どう受け止めるかによって、変わってくるも
のなのだろう。たとえ、電車が迫る線路に父
が入って行くところを見た者がいたとしても、
きっと母はそれを信じない。

 だから満留も、そう思うことにした。
 『父は事故で死んだ』のだと。

 そうすれば、写真の中の父は変わらない
笑みを湛えたまま、ずっと二人を見守ってく
れるに違いない。

 けれど一つだけ、疑問に思うことがあった。
 どうして母は、いまになって本当のことを
娘に話そうと思ったのだろうか?そのことを
訊ねると、母は「そうねぇ」と含羞みながら
涙の乾きかけた頬を、掌で拭った。

 「満留の成長段階に合わせて、本当のこと
を話していこうと思っていたのよ。小学校に
上がるまでは、『お父さんはお仕事で遠い所
に行ってる』、って話してたでしょう?」

 「うん、そう言ってた」

 「でも、いまは高校生になって、少しずつ
色んなことを受け止められるようになって。
いまの満留ならお母さんがお父さんを好きに
なった気持ちとか、ずっと忘れられない気持
ちとかも、一人の『女性』として理解できる
んじゃないかと思ったのよ」
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