さつきの花が咲く夜に
 本当なら自分が母を元気づけなければい
けないのに、どうして子供のように泣くこと
しか出来ないのだろう?あまりの不甲斐なさ
にようやく顔を上げると、母はにっこりと笑
って満留の手を握りしめた。そうして、ぶん
ぶんと繋いだ手を大きく振った。

 「ねぇ、ご飯食べて帰ろうか?満留は何食
べたい?お母さん、ソースにすりゴマいっぱ
い入れて、とんかつに掛けて食べたいなぁ」

 燦々と降り注ぐ春の陽射しに目を細めなが
ら、母がひょっこりと顔を覗く。その母に、

 「……ひれっ、ヒレカツ食べたい」

 と、しゃくり上げながら答えると、

 「よし!ヒレカツにエビフライも付けちゃ
おう」

 と、明るく笑って母は大股で歩き出したの
だった。その姿は、がんを告げられる前の母
と何ひとつ変わらず、だから満留はほっとし
て笑顔を取り戻すことが出来た。



 それから、がんの治療が始まっても母は
拍子抜けするほど、元気だった。病気になる
前と同じように働き、家事をこなし、休日は
満留と二人でショッピングに出掛けることも
ある。治療は毎日薬を飲みながら月に一度
注射をし、その合間に骨転移を抑制する点滴
をする。のだけど……その点滴も目立った副
作用はなく、想像していたような闘病やつれ
もぜんぜん見られなかった。

 もしかしたら、お母さんは不死身なのかも
知れない。密かに、そんな風に思うこともあ
ったけれど、実際は母の病気に薬がピタリと
合っていたというのが正解なのだろう。

 この世の終わりのように感じたあの日から
八年あまり。幸いにも、病気は進行すること
なく満留は母と二人、平凡で幸せな日常を送
ることが出来たのだった。


――けれど半年ほど前だったろうか。


 永遠に続くと思われた母との生活に、突如
暗い影が忍び寄ってきた。長いこと安定して
いた腫瘍マーカーの値が急上昇し始めたのだ。

 特に目立った自覚症状はなかったので、
その時も「まさか」という思いだった。が、
後になって「実はね、少し前から右の脇の下
が腫れていたのよ」と、母から打ち明けられ
た時は、奈落の底に突き落とされたような心
地だった。

 すぐに始まった抗がん剤治療は、思いの外
副作用が酷く、続けることが叶わなかった。

 白血球を上げる注射が母に合わず、2クー
ル目まで頑張ったところで感染症を起こし、
入院してしまったのだ。その時も、満留は泊
まり込みで母の看病をしていたのだけど……。

 ようやく熱も下がり退院するという前日、
午後の回診に訪れた担当医に、母は穏やかな
顔をして思いも寄らないことを言った。

 「先生、しばらくの間、積極的な治療は控
えたいんです」

 その言葉を聞いた瞬間、ざわざわと黒いも
のが胸の内を撫でていったのを満留は憶えて
いる。他の薬を試してみないか?という医師
の提案に、微笑を浮かべながら首を振った母
の横顔。
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