さつきの花が咲く夜に
 どうしてそんな大事なことを、一人で決め
てしまうのだろう?そんな怒りにも似た感情
が胸の中に渦巻いてしまい、満留は生まれて
初めて母に対し語気を強めてしまった。

 「お母さん、どうしてそんなこと言うの?
治療を中断するなんて、私、ひと言も聞いて
いないよ!」

 強い眼差しを向けてそう言った満留に、母
はそれでも表情を崩さない。そうして、笑み
を浮かべたままで小首を傾げると、いつもの
やわらかな声音で言った。

 「お母さん、もともと丈夫な方だし、家で
のんびりしながら美味しいものたくさん食べ
た方が体力つくと思うの。それにね、ずっと
髪がないままっていうのも、寂しいのよ。
お母さんの長くてきれいな髪、満留も大好き
だったでしょう?だから、やりたいことやっ
て、食べたいもの食べて、それで元気になっ
たらまた治療に専念する。そういう選択だっ
て出来ますよね?先生」

 母の申し出に、渋い顔をして黙り込んでい
た医師は「まあ、休薬するという選択肢もあ
りますね」と頷く。満留はベビーピンクの
ケア帽子に覆われた母の頭に目をやると、
何も言えず両手を握りしめた。

 背中の半ばまであった、母のきれいな黒髪。
 毛先を緩く巻いて後ろで一つに束ねた母の
姿は、清楚で若々しくて、子供の頃から大好
きだった。けれど、自慢の髪を失っても生き
ていて欲しい。少しでも長く生きられるよう、
頑張って治療を続けて欲しい。

 そう思うのに、母の命は母のもので、母の
人生もまた母のもので……。例え娘であって
も、母の決断に介入することは出来なかった。



 退院すると母は仕事を辞め、その言葉通り
のんびりと日々を過ごした。満留を仕事に送
り出した後は、何をしているかわからなかっ
たけれど、家に帰ってくると夕食が出来てい
るので、買い物に行ったり、掃除をしたりし
て過ごしていたのだと思う。

 食欲も戻り、表面的には体調も回復してい
たので、休日は母が食べたいというパフェの
デカ盛りに挑戦したり、露天風呂付きの客室
を予約して二人で温泉旅行に行ったり、母娘
で濃密な時間を過ごした。

 「ねぇ、満留。触ってみて。人間の生命力
って凄いのねぇ。お母さんの髪、もうこんな
に伸びちゃった」

 温泉から上がってタオルドライした頭を母
が向ける。そろりと手を伸ばして触れてみれ
ば、パヤパヤとやわらかな産毛が、それでも
頭皮を覆うようにしっかりと生えている。

 「本当だ。ふわふわして、とっても気持ち
いい」

 そう言うと、母は「でしょう?」と相好を
崩した。

 「もう少し伸びたら、ケア帽子外して歩こ
うと思ってるの。だから、ベリーショートに
似合いそうな洋服が欲しいのよ。満留、今度
一緒に選んでくれない?」

 「もちろん。ベリショならモノトーン系で
まとめてもカッコ良さそう」
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