さつきの花が咲く夜に
 そうして、父の上で燃えている布団を引き
はがす。幸い、父の身体に火は燃え移ってい
なかったが父に意識はなく、生きているのか
さえわからない。

 「起きろよ!とっ……げほっ、げほっ!!」

 俺は意識のない父の身体をベッドから引き
ずり下ろそうと、息を止め、力任せに引っ張
った。すると、ずるりとベッドから落ちた父
の身体と共に燃えた布団が床に落ち、その炎
が俺の左腕に燃え移ってしまう。

 「……わっ!!」

 それは一瞬のことだった。
 着ている服が燃えやすいものだったからか、
必死に濡れタオルで叩いても火は消えてくれ
なかった。


――逃げなければ、死ぬ。


 瞬間、そんな恐怖が心を支配した。
 パチパチと不気味な音をさせながら、目が
眩むほどの炎が迫り、ちりちりと熱い空気が
頬を撫でている。もう一刻の猶予もない。


――死にたくない。


 そう思った俺は部屋を飛び出すと、燃える
左腕を壁に擦りつけながら階段を駆け下り、
玄関の戸を開けた。そして、ゴロゴロとアス
ファルトの上を転がり、左腕の火を揉み消す。

 「おい君!大丈夫かっ!?」

 火事に気付いて道路まで出てきた近隣住民
の何人かが、俺に駆け寄ってきて声を掛けて
くれた。


――助かった。


 安堵と共に身体の芯から震えがきて、じわ
りと涙が滲んだ。俺はカタカタと震え出して
しまった喉から、必死に声を絞り出した。

 「……なかに、父さんが……助けて」

 肩で息をしながらそれだけを告げると、
俺は、ふっ、と意識を失ってしまった。遠く
でサイレンの鳴る音が聴こえた気がしたが、
やがてその音さえも暗く深い闇の中に消えて
いった。







 次に目を覚ました時、目に飛び込んできた
のは、ぽつぽつと幾何学的に穴の開いた白い
天井と、目の周りがパンダのように黒ずんだ、
母の顔だった。

 俺は夢か現か、区別がつかないままじっと
母の顔を見つめた。

 「……しのぶっ!」

 俺の名を呼ぶ母の声がして、温かな感触が
右手を包み込む。母が自分の手を握っている
のだと理解した瞬間に、俺はぽつりと呟いた。

 「……母さん、フライトは?」

 擦れた声でそう言った俺に、母は灰色に濁
った涙を流しながら顔を歪める。母のこんな
悲しそうな顔を見るのは、生まれて初めての
ことだった。

 「火事の知らせを受けて、戻ったの。直通
便で七時間かかったけど、すぐに会社がチケ
ットを手配してくれたから」

 「……火事?」

 そのひと言に、俺は眉を顰める。


――そうだ。火事にあったんだった。


 ぼんやりと霞んでいた頭の中に、恐ろしい
光景が甦った。そしてすぐに、ひとつのこと
に思い至る。あの人は、父さんは助かったの
だろうか?

 「……父さんは?」

 その疑問を恐る恐る口にすると、母はどき
りとしたように表情を止め、やがてゆっくり
と首を振った。

 「ダメだったのか」

 声もなく父の死を知らされた瞬間、俺は
信じられないほどの喪失感に襲われた。
 さまざまな想いが込み上げ、それが涙に
変わってゆく。
< 87 / 106 >

この作品をシェア

pagetop