さつきの花が咲く夜に
 父が死んだ。
 何ひとつ思い出を残さないまま。
 逝ってしまった。
 生きていて、欲しかった。
 せめて、生きていて欲しかった。
 生きていれば、いつかは心を通わせること
が出来たかも知れないのに。もうそれを望む
ことさえ出来ない。
 憎んでいるわけでも、恨んでいるわけでも
ないのに。どうして俺は自分から父に近づく
ことが、出来なかったのだろう?

 大切なことは、失くしてから気付くものな
のだろうか。俺はとめどなく流れてしまう涙
を、包帯でぐるぐる巻きにされた腕で拭った。

 「……俺、父さんを見捨てたよ。死にたく、
なかったんだ。だから自分だけ、逃げた……」

 嗚咽まじりに言うと、母は強く強く右手を
握る。

 「あなたは、何にも悪くない。紫暢が助か
ってくれて良かったって……きっとあの人も、
そう思ってるはずよ」

 母の声は存外にやさしかった。
 やさしいことが、不思議で仕方なかった。
 この人はもしかして、俺が助かったことを
喜んでいるのだろうか?
 同じ屋根の下に暮らしながら、まるで他人
のように過ごしてきたというのに。

 俺はひとしきり涙を吸い取った包帯を目元
からずらすと、真っ赤な目で母を見つめた。

 「……母さんも、俺が助かって良かったっ
て、思ってるんだ?」

 口にした言葉は、母の心を抉ってしまった
ようだった。母は泣き出してしまいそうな、
怒っているような、傷ついているような複雑
な顔をすると、震える唇を動かす。

 「当たり前でしょう?私には……あなたし
かいないんだから」

 母がなにを言わんとしているのか、すぐに
は理解できなかった。『あなたしかいない』と
いうその言葉は、まるで俺が大切だと言って
いるように聞こえて、急激に心が膨らみだす。

 何も言えないまま食い入るように母を見つ
めると、母は困ったように一度視線を泳がせ、
そして目を伏せた。

 「こんなこと、いまさら言ってもわかって
もらえないかも知れないけど……あなたのこ
と、大事に想わない日は、一日もなかったわ」

 「……は?」

 母の言葉は、受け止めるには大きすぎて、
わけがわからなすぎて、俺は思わず嗤笑(ししょう)して
しまう。心臓は信じられないほど早さを増し、
心の芯は熱くたぎっていた。

 「……なんだよ、それ。わけわかんねー」

 膨れ上がる感情を抑えきれずそう口走ると、
母は大きく何度も頷きながら、ぐい、と掌で
涙を拭った。

 「そうよね、わかるわけないわ。だって、
いままで何ひとつ、母親らしいことをしてあ
げられなかったんだから。でも、あなたを大
切だと思ってたのは本当。だけど私には大事
な仕事があって、一歩家を出れば逃れられな
い責任があって。あなたに手を掛けてあげら
れないからお義母さんに預けたけど、『母親
は子どものために生きるべき』という信念
を持つお義母さんと折り合いがつかなくて。
仕事を辞めるよう言われるたびに、母として
生きられない自分を否定されているようで、
母として自信が持てなくて、辛かった……」
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