さつきの花が咲く夜に
 いつか読んだ心理学の本に、
『インナーチャイルド』という言葉があった。
 直訳すると、『心の中の子ども』という意味
だが、ありのままの気持ちを家族に表現でき
ず、ネガティブな感情を抱えたまま自分らし
く生きられなかった子どもをそう呼ぶのだとか。

 けれど、インナーチャイルドの多くが抱える
『親に愛されていない』という想いは、その
ほとんどが子どもゆえの誤解なのだという。
 子どもには、目に見えない人の心の裏側を
推し量るだけの器量がないので、親が表面的
に見せる言動だけで『自分は愛されていない』
と思い込んでしまうからだ。そして、全ての
親が完璧ではなく、愛していても伝え方がわ
からなかったり、自信が持てなかったりする
ことが『心のすれ違い』の要因となってしま
うらしい。

 結局のところ、この年になるまで母の心の
裏側を知り得なかった俺も、きっと、未熟な
一人の子どもに過ぎなかったのだろう。

 俺は右手に縋りつくようにして泣いている
母に、ぼそりと呟いた。

 「……赤が好きだよ」

 その声に母がゆるりと顔を上げる。
 向けられた顔は、いままで見てきたどんな
母の顔よりもボロボロで、ぐちゃぐちゃで、
なのにその顔が一番『母らしい』などと思っ
てしまう。俺は涙が乾きはじめたばかりの頬
を緩めると、穏やかに言った。

 「……俺は赤が好きだよ。赤は、母さんの
色だから」

 瞬間、母の目から、ぶわっ、と涙が溢れ、
母は子どものように声を上げて泣き出してし
まった。俺は母が泣き止むまでずっと、ぽつ
ぽつと幾何学的な点が散らばった白い天井を
睨み、唇を噛みしめていた。







――それから二日後、俺は退院した。


 母と病室を出る直前に訪れた警察の話によ
ると、火災の原因は、ベッドのヘッド部分に
置いていた照明器具が何らかの拍子に倒れ、
布団が発火したというものだった。俺が駆け
付けた時にはすでに父が絶命していたことを
聞かされたのも、その時だ。

 父は苦しむことなく、眠ったまま人生を終
えたことがせめてもの救いだった。

 翌日、しめやかに父の告別式を終えると、
俺と母はしばらくの間、事後処理に追われる
こととなる。火災保険の臨時費用でホテルを
借り、母はそこを拠点にさまざまな手続きで
奔走した。

 俺は火災調査の済んだ家にひとり向かい、
焼け跡からわずかな思い出を拾い集めた。
 奇跡的に燃え残った金庫の中には、少しの
現金と通帳。その他に家の登記簿や保険証書、
そして父が若いころ使っていた、前時代的な
丸メガネが残されていた。それを手にホテル
へ戻ると、母は疲れた顔をしながら父のこと
を語り始めてくれる。
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