さつきの花が咲く夜に
 結婚したころ父はまだ常勤講師で、そこま
で忙しくはなかったこと。准教授、正教授と
順調に昇進していったが、その分野では名の
通った研究者だったこともあり、勤務時間を
遥かに超える仕事量を抱えていたこと。
 数十人の学生と研究スタッフを抱えていた
父は、学会や財団などの委員を務めながら研
究資金を維持するために、寝る間も惜しんで
論文を書き綴っていたこと。母は母で仕事が
忙しく、夫婦仲が冷え切ってしまうのに、
さほど時間はかからなかったこと。

 それらの話は、すべて初めて耳にするもの
だったが、子どもながらに家を出てゆく父の
背中から感じ取っていたものと同じで、父の
心が家族から剝がされてゆく過程を、改めて
知ることが出来た。父はきっと、望んで家族
に背を向けたのではないのだろう。

 研究と論文にのめり込むあまり、家族に心
を向ける余裕を失くしてしまったに違いない。

 「まさか、母さんの口から父さんの話を
聞ける日が来るとは、思ってもみなかったよ」

 話を聞き終えた俺がそう言うと、母は父の
丸メガネを指先で撫でながら面映ゆい表情を
見せた。

 「私も。こんな風にあなたと話せる日が来
るなんて、思ってもみなかった。人間、生き
てさえいれば過去は変えることが出来なくて
も、過去を取り戻すことは出来るのかも知れ
ないわね。それが出来なかったあの人は……
やっぱり不憫だわ」

 初めて母の口から含蓄のある言葉を聞いた
俺は、思わず目を丸くしてしまった。その
反応に拗ねたような顔をして肩を竦めると、
母は唐突に話を切り出した。

 「実はね、空から下りることにしたのよ」

 「は?下りるって、どういう意味だよ」

 「だから……キャビンアテンダントから、
グランドスタッフに転身するっていうこと。
実はしばらく前に上に伝えていたのだけど、
ついさっき連絡が来たの。関空に空きがあ
るから、来月からどうかって」

 グランドスタッフとは、出発前と到着後
の窓口業務を担う、地上スタッフのことだ。
 飛行機に搭乗し、機内でサービス業務を
行うキャビンアテンダントとは仕事内容が
まるで違う。

 俺は驚きのあまり「まさか」と口走った。
 空を飛ぶのが母の夢で、それは長いこと
変わることなく、俺との時間を削りながら
この先も空を飛び続けると思っていたのに。

 母の急な決断に、どんな顔をすればいい
のかわからずにいると、母は真っ直ぐに俺
を見つめて言った。

 「体力的にも、そろそろ限界を感じてい
たのよ。定年まで空を飛び続けるベテラン
もいるけど……多くのキャビンアテンダン
トは途中で空を下りて、他部署や地上勤務
に異動するの。グランドスタッフの仕事も
決して楽ではないけど、いままでみたいに
長期間家を空けることがないから、少しは
家のことも出来るし、あなたと一緒にいら
れる。だから、勝手過ぎるかも知れないけ
ど、私と一緒に大阪に来て。大事な時期に
転校することになってしまうけど、離れて
暮らしたくないのよ」
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