ハモニカの音
ハモニカの音

 暇さえあれば彼はハーモニカを吹く。小学生の頃に買ってもらったらしく、かなり年季が入ったハーモニカだ。
 いや、子どもの頃に音楽の授業で吹いたようなハーモニカではなく、穴が十個しかない、手のひらにすっぽり収まるサイズのもので、正式にはブルースハープと呼ぶらしい。銀色で、メーカー名の他に蔦のような模様が刻まれたそれは、惚れ惚れするくらい美しい。音楽史に詳しくないわたしはその楽器を、ただ単に「ハーモニカ」と呼んでいる。

 そんな音楽史に詳しくないわたしでも、音は演奏者によって変わると思っている。どんなに同じ楽器でも、だ。例えば彼はハーモニカ以外にもギターを弾くけれど、彼が奏でる音はとても柔らかくて温かい。春にベランダで日向ぼっこをしているかのような、穏やかな心地良さがある。でも彼のギターを別のひとに貸しても、聴こえてくるのは日向ぼっこの音ではないのだ。

 わたしは彼のハーモニカやギターが奏でる、その柔らかくて温かい音が大好きだった。のに、なぜか今日はいつまで経ってもハーモニカを吹かない。毎日毎日聴いていた音がしないのはなんだか寂しい。

 ソファーの上で膝を抱えている彼に「吹かないの?」と問うと「なくした」らしい。
 いくら手のひらに収まるサイズだとしても、あんなに毎日吹いていたものをなくすなんて。そんな高等技術、一体いつの間に身につけたのだ。そんな技術を身につけたとしても、何の役にもたたないというのに。

「新しいの、プレゼントしようか?」

 聞くと彼は力無い声で「いい」と言って首を横に振る。そりゃあ二十年も使っていたのだから、それ以外のものを吹く気にはならないだろう。
 マイペースで、あまり表情が豊かではない彼は、今日も相変わらず表情が薄い。切れ長で一重まぶたの目と、それが隠れるくらい長い前髪は、見る人によれば威圧感がある。けれどその薄い表情も、今日は心なしか元気がない。

 手持ち無沙汰でソファーに寝転んだまま、アコースティックギターを身体の上に乗せ、呟くように奏でる音も、元気がなかった。

「そのうち出てくるよ」

 ありきたりな励ましの言葉をかけると、洗濯が終了した音が聞こえたから、ちゃんと励ますのは洗濯物を干してからにしよう。


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