ハモニカの音
項垂れる彼を尻目に洗濯物を抱えベランダに出る。最近天気が悪くてずっと部屋干しだったけれど、この陽気ならすぐに乾いてくれるだろう。
そんな陽気に似つかわしくないほど、彼のギターは哀しい音色だった。指がギターのネックを移動するたびに鳴るきりきりという弦の音が、木枯らしのように聴こえるほどだ。
知り合った頃から、彼はいつもハーモニカを吹いていた。考え事をしているときも、手持ち無沙汰なときも。恐らくそれが、彼の思考を整える重要な要素となっていたのだろう。
スポーツ選手が試合中に行うルーティンと同じだ。彼らは毎回同じ動作をすることで集中力を高め、パフォーマンスを向上させているという。
彼はそれが、ハーモニカを吹くという行為だった。
それならなくさないように管理してほしいものである。もし見つかったら、なくさないようにGPSでも取り付けようかしら、と。嫌がる彼の表情まで想像してふっと笑うと、持ち上げた彼のパーカーのポケットから、何かが飛び出してきた。それはカチャンと音を立て、足元に落ちる。
見ると、年季が入ったハーモニカだった。あった。こんなところに。まさに灯台下暗し。そういえば洗濯中、洗濯機がやけにがたがた鳴っていたなと思い出した。
ハーモニカを拾いあげ彼に渡すと、途端に彼はぱあっと笑顔になり、「ありがとう、本当にありがとう、愛してる!」と滅多に言わない愛の言葉を連呼した。
「まったく、しっかりしてよね。こんなに大事なものをポケットに入れたまま洗濯するなんて」
「うん、確か昨日、吹いてるときに仕事の電話がかかってきて、メモ取るときにポケットに入れたんだと思う」
ああ、それでそのあとすぐに着替えて外出したから、ハーモニカは忘れ去られてしまったのか。答えが分かれば、なんとも滑稽なひとくだりだった。
彼はもう一度「ありがとう、愛してる」を言ってから、ハーモニカに口をつける。
普段愛情表現をするタイプではなくても、こんなに連呼されては安っぽく感じてしまうな、と苦笑して、パーカーをハンガーに掛け皺を伸ばした。
それでもわたしの気分は晴れやかだった。
聴き慣れた音は耳によく馴染む。ようやく聴くことができた音に、心底ほっとしているのに気付いた。ハーモニカを吹くのが彼のルーティンなら、それを聴くのがわたしのルーティンだ。彼の日常が、いつの間にかわたしの日常にもなっていたのだ。
わたしたちの過去から未来へと続く、その柔らかくて温かい音色は、突き抜けるような青空にどんどん吸い込まれ、溶けていった。
(了)