三羽雀
 「手厳しいなあ」
 長津は遠くまで続く隅田川の向こうを見つめている。
 「しかし、あまりにも負担になるようであれば注文を減らすよう主計科に掛け合いますよ」
 幸枝は長津の申出に対して首を横に振った。
 「暫くは様子を見ます。うちも幾つか工場を増設しましたし、今後も増やす予定です。それに、こればかりは戦局次第で変わるでしょうから……」
 長津は欄干に手を伸ばし、橋の下に広がる景色を眺めている。
 「注文票、ご覧になりますか」
 「もう少し人気(ひとけ)の少ないところに行きましょう」
 長津の手を取った幸枝は、本所の方面へと歩き出した。
 「うちの本社へ。裏口には滅多に人が来ません、本来であれば応接間にでもお通しするべきですが……貴方のことを知る人は私以外に居りませんので」
 すたすたと歩いていく小柄な少女を見つめる目には僅かに驚きが浮かんでいる。
 長津は敢えてその手を振り切らず、そのままにして幸枝とともに伊坂工業へと向かった。
 辺りを見回しながらその道順を記憶しようと試みつつ歩いていると、「伊坂工業」の看板を掲げた三階建のビルに辿り着く。
 「これがうちの本社です。工場は区内の数カ所に設置してあります……さあ、こちらへ」
 日光が一筋だけ射し込めるほどの細い路地を進んだところで左に曲がると、「PRIVATE」と書かれた扉が現れる。
 「普段使わないお部屋なので少し埃っぽいかもしれませんが、ご容赦くださいね」
 キイと音を立てて開いた扉の向こうには、朽ちた戸棚と机が置いてあった。
 「何だか探検でもしているような気分になりますね」
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