三羽雀
 「俺は今打診したに過ぎない。結局は君次第だが、この件で助けが要るなら頼ってくれ」
 そう告げた長津は、(おもむろ)に上衣を着直して(ボタン)を留めている。
 「もうじき授業が終わります、学生に見られる前に出ましょう」
 幸枝はすっかり回復してはいたが、別の(わだかま)りを患って海経を後にすることになった。
 それから二週間ほど過ぎ、秋の訪れを告げるように冷ややかな篠突(しのつ)く雨の朝、幸枝は本社ではなく日比谷公園へ向かっていた。
 『午前八時三十分 日比谷門』と書かれた行先を見たときから、幸枝は妙に緊張している。前回は想定外の事態で海経のお世話になったが、今度は初めからこの場所が指定されているのである。
 (こんな大雨の日に限って朝から……)
 停留場から少し歩いて日比谷門近く。淡い桃色の傘からは、滝のように雨水が垂れている。
 戦争が始まるまでは長閑(のどか)な公園であったが、軍用地となった昨今、この場所には張り詰めた、物々しい空気が漂っている。
 (あのこと……長津さんに相談してみようかしらね)
 幸枝は長津から疎開の話を持ち掛けられてから彼女なりに考え、その晩、封筒を渡した序でに、父にその話をした。
 「そのかたはそう仰るの。お父様はどう思う」
 「一理有る話だな、その人の話を詳しく聞いて来ると良いよ」
 父は、ひとつ頷いた。多様な界隈の重鎮と交友があるだけに、彼も今後の社会の動向にはある程度の予測、それも長津と似たようなものがあった。その見識によれば、このまま若き娘を東京に置いておくのは不安なのである。
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