三羽雀
 再び居間に背を向け、今夜の食材を切りながら考える。
 確かに家ではずっと父と二人で、仕事場にも父がいる。
 毎日家と隣の病院を行き来するだけで、診療時間には受付や調剤といった仕事に忙殺される。
 慌ただしく仕事をしていると、就業時間が来て家に帰り今日のように家事をする。
 (伊坂さん……恐ろしい方ね)
 志津の思うところ、あの女は彼女自身すら気が付いていなかった日々の辛さや寂しさを見抜いている。
 物心付いた時には既に母は居なかった。
 しかし、高田志津という人間が存在している以上は父のほかに母が在ったことは明らかである。
 しかし、その母という人間がどのような人物であるかは皆目見当が付かない。遠く雲隠れしているように思える。
 父は時々母のことを振り返って話してくれるが、それは夫から見た彼女の姿に過ぎない。
 母としての彼女の存在は誰一人知ることのない。母になって間も無く死んだ彼女の人生は、もうその時点から紡がれていないからだ。
 父と病院の看護婦に助けられ成長し、女学校や女子大学校にまで進んで薬学を勉強したからこそ、今こうして薬剤師兼事務員として家業の一端を担っている。
 家業を担っているといえば、きっとあの女も同じである。
 町の小さな診療所の娘と帝国有数の大企業の娘。
 それぞれ確かに家業を手伝っている筈なのに、こんなにも暮らしぶりや心持(こころもち)に違いが出るのは皮肉なことだ。
 誰もが知るような、あんな大きな会社の娘であれば、きっと業界でも有名──もはや想像も付かない境地かもしれない。
 お金があって、好きなように出来て、美貌もあって、引く手数多(あまた)だろう。
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