三羽雀
 そんな彼女も、本人が言うには、幼い時に母が家を出て父と女中に育てられたらしいが、これは彼女の表現した「厳密には異なるが同義」とは程遠い。全く違うものである。
 第一、あの女は大企業の娘。まず経済力が違う。着ていた洋服や家に入ってきた時の表情で分かる。私より余程良い服を着て、良い家に住んでいる。
 それからやはり、幼いときに母が家を出たということは、その母には何かしらの母としての人生が刻まれていたわけで、数年は娘の成長を見守っていたわけであるし、失踪したとしても何処かで生きている可能性はある。
 少なくとも確実にこの世に居ないとは言い切れないだろう。
 彼女は、今も母が居たらとか、居なくなってさえいなければと思うことはあるのだろうか。
 母の居ないことを惨めだと思うことはあるのだろうか。
 何故自分には母が居ないのかと自問することはあるのだろうか。
 夜な夜な、正体不明の寂しさや恐ろしさのような何かに(さいな)まれて泣くことはあるのだろうか。
 それとも全ては財力で解決するのだろうか。
 慰めてくれる人は居るのだろうか。
 私の場合は、十六の冬に書いた日記が慰めである。
 私は幸福者(しあわせもの)であると、信じて疑わないこと。そうして生きていくほかないのである。
 母のことを考えそうになると、自らがいかに幸福(しあわせ)であるか、理屈を付ける。
 そうして、自分は幸福(しあわせ)だと言い聞かせる。
 あの女は、そんなことをせずとも喜んで擦り寄ってくる男が幾らでも居るのかもしれない。
 (康弘(やすひろ)さん……今日も元気にしていらっしゃるかしら)
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