三羽雀
 どうしたものかとまごついている志津であったが、ふと左側に人影が現れたのに気がついた。
 「お取りしましょうか」
 いつからそこに居たのかは分からないが、真隣に立っていたその人は息を呑むほどの美貌の持ち主であった。
 志津はまるで落雷でも浴びたかのようにその場に立ち尽くしている。
 その美貌を例えるならば、あの銀幕スター。「絶世の二枚目」と呼ばれたその人だ。
 くっきりとした顔立ちに三日月のような微笑みの口元、端整そのものである。
 「あの……」
 恍惚感(こうこつかん)に浸っていた志津は彼の一言で目を覚ました。
 「あらいけない、すみません。ついうっかりしておりまして……ええと……あの本を取ってくださる?少し奥に入っているのを……はい、それです」
 「これですね」
 彼の細長く骨張った手先が書架に向かう。
 ああ、あの手に取られる本はきっと幸運だ。私も……いや、いけない。
 私には許嫁が居る。私は(れっき)とした人妻の一歩手前である。
 いくら許嫁と疎遠だからといって、見ず知らずの人間に惚れているようではいけない。
 「少し拝見しても良いです?」
 「え?はあ、どうぞ!」
 志津は混乱しながら答える。
 彼はぺらぺらと(ページ)(めく)り、熱心に目を通している。
 (ドイツ語が分かるのかしら)
 読書をするその目は端麗で、ドイツ人が本を読んでいるようにも見えた。
 「薬学書とは……なかなか難解なものですね。文法は判るがやはり単語が解らない」
 本を閉じた彼はそれを志津に差し出す。
 「ドイツ語は御勉強なすっていらっしゃるんです?」
 よくよく見ていると、彼は帝大の詰襟を着ていた。
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