三羽雀
 彼女の思った通り、それから二週間ほど経った月末(つきずえ)には空襲の恐怖はじわりじわりと西へ迫り、麹町(こうじまち)京橋(きょうばし)の町が焼かれ(おびただ)しい数の人々が死に負傷した。軍は(たゆ)み無い敵機の監視や熾烈(しれつ)な迎撃を強調しているが、地上は正に地獄と化していた。
 それからというもの、いつ空襲が来るか分からないという状況でありながらも(ようや)く薬局が完成し、志津は「高辻薬局」の店主として働く日々が始まった。
 真っ(さら)な薬棚の並ぶ店と数名の薬剤師の並ぶ受付を眺めていると、結婚してから数週間の主婦生活も悪くはなかったかもしれないとも思う。
 しかし、朝から良人(おっと)と共に出勤し昼食を摂って帰宅する一日も決して嫌ではない。
 開業に合わせて雇った薬剤師の中には学生時代の後輩も居て、それぞれ信頼できる人が集まっている。これまでのように事務と兼任する必要も無く、薬剤師としての仕事により専念できるようになった。
 (こんな時勢だけれど、康弘さんと結婚出来て良かったのかも)
 雲に覆われた寒空の下、今日も多くの患者がやってくる。
 「病院のすぐ近くに薬局が出来て便利だわ」
 そんな声を聞くと、志津はつい嬉しくなる。そして、自分のために薬局を作ってくれた良人とその兄にも感謝している。
 (忙しさの中にも穏やかさがある、今日も良い一日だわ……)
 満足気に過ごしていた昼下がりであったが、志津の安堵にも似た感情は例のサイレンで崩れ去った。
 受付の向こう側から(どよ)めきが湧くのが聞こえる。
「皆さん、落ち着いてください!向こうの病院へ」
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