三羽雀
 目睫(もくしょう)に迫り来る悪夢に顔を(しか)めた彼は静かに病院の地下へ戻り、患者達を妻に任せて兄と看護婦を呼び出した。
 「どうだ、様子は」
 階段を登りながら兄は沈着な声で尋ねる。
 康弘は上階に上がりきったところで、
 「うちは問題ありません」
 と答える。
 「そうか、患者達を外に出そう。おい、作業にあたれ」
 「はあ」
 四人の看護師のうち二人が登りかけていた階段を降りてゆく。
 「しかし……」
 苦々しい表情の康弘はぶつぶつと話し始めた。
 「外は大変なことになっていて、すぐそこでも火事が……」
 その時、病院の扉を激しく叩く音が廊下に響いた。
 「助けてくれ!」
 兄の開けた戸の先には、地に()うようにして女を連れた男が立っていた。
 「妻が火傷(やけど)を……手当をしてくれないか」
 男も腕や顔に切り傷を負っている。
 彼は二つ返事で治療にあたるわけにはいかなかった。
 医師であれば人の命を救いたいと思うことは当然であるが──実際、男に連れられた女は相当(ひど)い様子だ──この病院には入院患者が居るし、通常の業務も有る。
 今この人達の処置をすれば、少なくとも区内に「高辻醫院であれば手当をしてくれる」という噂が伝わるだろう。
 それで病院の評判が上がり外来が増えるのは良いことだが、医療物資を揃えるのにも一苦労、それに空襲も激しくなると思われるこの状況で緊急の手当ばかりをしていては病院としても上がったりである。それに、第一この病院は内科と小児科である。緊急の手当くらいならば出来るが……。
 「どうか……!こいつを助けてやって下さい」
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