三羽雀
 兄の声に即座に反応して立ち上がったのは康弘で、
 「兄さん、どうしたんだい!」
 と声を張り上げて玄関へ向かった。
 志津もどこか慌ただしい屋外の様子に異変を感じて布団を出る。
 「本所(ほんじょ)まで行って来い」
 「ん?」
 弟は兄の一言にぽかんとした表情で答える。
 「本所?反対側じゃないか」
 牛込は区部の西にある一方、本所は隅田川を挟んで深川と並び東端に位置している。
 「康弘君、東部は大変なんだ。子どもも大勢居る。診てはくれないか」
 びりびりに破れた服に(すす)だらけで自転車のハンドルを握りしめる見知らぬ男性は、(しゃが)れた声で話す。
 「誰だよ、この人は……どうして僕の名前を知っているんだい。それに本所なんて、遠すぎる。僕らが行く必要があるかい、僕らには僕らの仕事もあるのに」
 康弘はゼエハアと息を切らせる男を一瞥(いちべつ)して兄に耳打ちする。
 「馬鹿!お前の先輩だよ!」
 「はあ?」
 思いもよらぬ兄の一言に弟は更に困惑した。
 「ちょっと、深夜なんだから静かにして頂戴よ……!」
 眠そうな声で玄関から出てきた志津は軒先に立つ二人の間に見えた見知らぬ男性を見て息を呑み、そそくさと屋内に戻ったかと思うと、湯呑み一杯の水と並々まで水を注いだ茶碗と手拭いを持ってきた。
 「これ、お飲みになって。お怪我は御座いません?お顔はこれで洗ってください」
 「ああ!有難う、有難う!」
 男は一気に水を飲み干し、バシャバシャと勢い良く顔を洗った。
 手拭いから現れた顔を見て、康弘も気がついたようである。
 「飯田(いいだ)先輩……」
 水の(したた)るその人は、康弘の学生時代の先輩であった。
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