三羽雀
 一学年上だった彼は、康弘が入学してから大変良くしてくれた学生時代の恩人である。
 「康弘君、お願いだ。向こうは病院も被爆して壊滅的だ。僕は空襲が収まってからすぐここまで来た。まだ助かる命があるかもしれない。本所や深川(ふかがわ)はもっと(ひど)(はず)だ。どうか、頼まれてくれないか」
 飯田は(まく)し立てるように話した(のち)、がくりと崩れ落ちるように頭を下げた。
 「先輩、よしてくださいよ。頭を上げて」
 飯田は頭を上げることはなかった。
 「お願いだ!ここへ来るまでの間にも、もういくつもの死体を見た。どこもかしこも燃えて火の海だった。それでも、まだ息のある者は居た。助けてやってくれないか」
 「康弘、俺からも頼む。お前はもう立派な腕利(うで)きの医者だ。飯田君の言う通り子どもも大勢居るだろう」
 康弘は「命」とか「子ども」とか、そういった言葉を並べるといよいよ断れなくなってしまった。向こう側がどのような状況かは分からないが、飯田を見ている限りではとんでもない惨状なのかもしれないという予想だけは付く。日本橋に住む彼がこの様子なのであれば、それより東の本所は本当に大変なことになっているだろう。
 「行きます」
 「本当か!康弘君!」
 「はい」
 飯田は後輩の手を固く握って涙ながらに、
 「有難う、有難う!」
 と叫びながら頷いている。
 一瞬足元を見た康弘は妻の方を見て、
 「志津これから本所へ行ってくる、八時前には戻る」
 と神妙な面持ちで告げた。
 志津は良人のその表情に緊張と恐れが現れているのが見て取れた。
 「私もご一緒します」
 本所といえば、あのお騒がせ兄妹の働く会社もある所だ。
< 294 / 321 >

この作品をシェア

pagetop