三羽雀
 「これが……隅田川なの?」
 志津は袖口で口元を覆ったままぽつりと呟く。
 川は燃えていた。
 遂に火の中を移動し続けて自らの目がおかしくなったか、深夜(ゆえ)の眠気で夢でも見ているのか──志津はそう思った。
 川とは水の集まりである。水とは火を消すものである。その水の集まりである川が燃えている?そんな冗談のような話がある筈が無い。
 志津は自らの頬を(つね)ってみた。喜劇のような安価で幼稚な方法であるが、これが夢であるならば、きっと痛くない。
 ──痛かった。ぎゅうっと(つま)んだ頬がひりひりとする。
 「志津……行くぞ」
 「行くって、どうして……」
 目先の道という道は踏み場もないほどに倒れた人で溢れ返っている。
 四方(よも)を炎に包まれ、居ても立っても居られないような熱さに耐え忍びつつ辺りを見回す。
 「息のある者を探すんだ。誰でも良いから、手当たり次第探そう」
 自転車を置いた康弘はポケットに入るだけの包帯や綿を入れて橋の方へと歩いていく。志津もそれを追うように消毒薬の瓶を片手に歩き出した。
 橋に近づくと、焦げたような臭いがさらに充満していてとても呼吸できたものではない。しかし、そんなことで作業の手を鈍らせるわけには行かなかった。
 まずはこの道を開けなければ本所に辿(たど)り着かない。向こう岸に見える地こそ本所の街であるが、そちら側も細長い炎が暴れ馬のように駆け巡り、数名の人が川に水を投じているのだけは見えていた。
 「おい、聞こえるか。誰か」
 良人は張った声で生存者を探しながら一人一人の腕を引いている。
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