天敵御曹司は政略妻を滾る本能で愛し貫く
 精一杯平常心を取り繕って去ろうとすると、「世莉さん」と急に呼び止められた。
「本当に辛いことがあったら、いつでもこの部屋へおいで」
「は……」
「じゃあ、俺は朝食を頂いてくるよ」
 優弦さんはそう言い残すと、朝食が準備される居間へ向かっていった。
 私は茫然と立ち尽くしたまま、動くことができない。
 辛いことがあったら……?
 今、私を不幸にしているのは、相良家そのものだ。
 それなのに、なぜ、あなたがそんなことを言うの。
 奥歯を噛み締めて、怒りと悲しみの感情を必死に押し殺した。

 四年制の専門学校を卒業し、和裁士の資格を取った私は、祖母の元で実務経験を積み重ねてきた。
 相良家には金銭的支援に留まらず、大手百貨店の呉服部を繋いでもらったり、著名な作家や棋士の衣装を担当させてもらったり、様々なお仕立ての仕事を紹介してもらった恩がある。
 父が生きている頃までは小さなグループ会社として数人の職人を雇っていたけれど、祖母と二人になってから会社は畳んでフリーになった。
 と言っても、雪島家という名は業界には浸透しており、独立して請け負える仕事の数は激減したものの、仕事に困ることは無かった。
 でもそれは、ベテランの一流和裁士である祖母の名前があったからこそ。
 これから自分ひとりで活躍していくには、相良家に依存しているだけではいずれ限界が来ると感じ、泥臭い営業もひとりで行った。とにかく自立したかった。
 和裁士一級の資格を取ったり、小売店に頻繁に顔を出したり、ホームページやSNSアカウントをつくったり、できることは全部やろうと思った。
 その甲斐あってか、今は安定して仕事をもらえるようになり、フリーの和裁士としては順風満帆な日々を送れていると思う。
「納期も詰まって来たから、急がないと……」
 女中の仕事を終えて、二十時になりようやく自室に戻った私は、脳を本業モードに切り替えた。
 古くから使っている重たいアイロンを手に取り、藤色の反物全体の皺を取り除いていく。じつは、この作業が一番大事だったりする。
 着物はもっと時間がかかるけれど、浴衣であれば一日、二日あれば縫えるようになってきた。
 もうそろそろ晴れ着の発注がラッシュになっていくので、浴衣の作業は終わらせておきたい。
 布目に沿って素早く丁寧にアイロンを当てて、反物の足並みをそろえていく。
< 13 / 122 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop