天敵御曹司は政略妻を滾る本能で愛し貫く
 女中たちは明らかにそわそわしていて、「今日もお美しい」とか、「毎日来てほしい」等と囁いている。
 たしかに、眼鏡の奥の瞳は切れ長で、顔も整っている。
 話によると、彼は井之頭義人(いのがしらよしひと)という名前で、優弦さんの専属秘書で、長年一緒に仕事を共にしているらしい。
「皆さん、今日はお邪魔してしまい申し訳ございません。これから月に一回現場のチェックをすることになりまして」
 井之頭さんは、機械的にそんなことを言ってのけた。
 要は、監視に来たというわけだ。私が変な行動をしていないかどうか確かめるために、優弦さんが配慮したのだろう。
 思わず敵対視し井之頭さんを睨みつけてしまうと、バチッと目が合ってしまった。
 まずい。今のはかなり、心証に悪かったのではないだろうか。井之頭さんは厳しい顔のまま、私を見ている。
 堪らず、私はふっと視線を外して、いつも通り仕事を始めた。
 大丈夫。いつも通りにしていれば、何も問題は起きない。
「あ、それ私が運びますよ。世莉さん」
 ガラス茶器を取ろうと、上の戸棚を開けた途端、突然百合絵さんが横にすり寄ってきた。
 私の名前などほとんど呼んだことがないのに、信じられないくらい愛想のいい笑顔を浮かべている。
 何だか嫌な予感がして、私は「いえ、自分でやります」と冷静に答えた。
 百合絵さんからそっと離れようとすると、唐突に手が伸びてきて、ガラス茶器を叩き落とされた。
「痛い‼」
「え……」
 百合絵さんが大きな声で叫び、その場にうずくまる。
 茫然としている間に、彼女はそっとガラスの破片を取るとそれでわざと指を切り、血を流した。
 あまりに手慣れた犯行に、言葉を発するタイミングを完全に逃してしまった。
「大丈夫ですか?」
 井之頭さんが慌てて駆け寄ってきて、百合絵さんの背中をさする。
 百合絵さんは目を潤ませながら、「大丈夫です」と返して、眉をハの字に下げてへらっと笑った。
「世莉さん、今わざと茶器を落としましたよね……? 百合絵さんに向かって……」
 困惑している私を、最年少の女中が指さし、そんなことを言ってのけた。
 やられた――と思った。今日この日に向けて、しっかり打ち合わせでもしていたのだろう。
「気のせいです。私の不注意ですから……」
 悲しそうな声でそんな演技をしている百合絵さんに、思わずぞっとした。
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