失恋王女と護衛騎士
「で、では……」

 なんとか失礼にならない程度に声をかけ、礼をとると、シャルロッテはその場から撤退することにした。正気を取り戻したエーミールに絡まれてはかなわない。こういう時は逃げるが勝ちだ。
 人ごみをかきわけて、どうにかシャルロッテはランベルトを伴ってバルコニーまでたどり着いた。人気のないそこに落ち着くとようやく人心地ついて、ふう、と大きな息をはく。
 今日は満月らしく、月の光が明るく庭を照らしている。どうやら、庭の中に人口の小川が作られているようで、流れる水の音が小さく聴こえていた。

「……ちょっと、やりすぎではない?」
「足りないくらいかと思いましたが」

 夜の外気は、少しひんやりとしている。その風で火照った頬をさましながら、シャルロッテは隣に立つ騎士をちらりと見た。薄暗いバルコニーでも、これだけ近くにいれば表情くらいはわかる。澄ました口調で返事をし、口元にうっすらと笑みを浮かべた彼を、シャルロッテは軽く睨みつけた。
 少し棘のある声を出したつもりだが、ランベルトには一向に堪えた様子は見受けられない。彼の満足げな表情は、何に対するものなのか――。
 シャルロッテは息をついた。
 そんなの、考えなくたって決まっている。リヒャルトから任された任務を無事に達成できることに対してだろう。
 今日の全てが、その為の行動なのだから。

「明日からまた――ううん、今からまた、噂になるわよ」
「今更でしょう……撤回して歩きますか?」

 笑みを含んだ声で言われて、シャルロッテは肩をすくめた。確かにその通り、今更である。
 よく考えれば、ランベルトには申し訳ない話だ。この計画がうまくいって、恋人役から降りてもらう時には、彼に有利になるように取り計らわなければ。
 どういう形にしろ、護衛騎士解任などという事態にだけはならぬよう、兄に良く頼んでおく必要がある。

「もう……無理でしょ」
「ま、そういうことです」

 苦笑したランベルトの隣で、シャルロッテもまた同じく苦笑いを浮かべた。

「でもまぁ、おかげさまでエーミールにいさまとの噂は消えそうね」
「え? あ、ああ……そう、そうですね。いや、どうでしょうか……」

 煮え切らない口調のランベルトに、シャルロッテは不審そうな目を向けた。彼の視線は、一瞬だけちらりと広間の中をさまよって、また彼女へと戻ってくる。

「……? どっちなのよ」
「まだ、今のところは何とも」
「まあ、そりゃそうなんだけど……」

 少なくとも、王女の現在の恋人は護衛騎士だ、という噂の補強が完璧にできたことだけは間違いないだろう。そのうえで、シャルロッテ本人がエーミールに全く興味のないところを見せつけたのだ。
 これでまだエーミールの言葉の方を信じるものがいるというのなら、どうしようもないのではなかろうか。――何度も思ったことだが、この計画、本当にうまくいくのか。

「なんにしても……早いところ、解放されたいわね」

 嘆息交じりのシャルロッテの言葉に、ランベルトがわずかに目を見張った。

「そう……思っているの?」
「え?」

 不意に視界が陰って、シャルロッテは思わず顔を上げた。思っていたよりも随分と近くにランベルトの顔がある。あ、と思ったときには、既に彼の腕が背中に回っていた。
 ――抱きしめられている。
 その事実に気が付いて、シャルロッテの顔は真っ赤に染まった。

「え、ラン――」
「シッ……黙って、誰か来そうだ」

 耳元にランベルトの吐息を感じて、シャルロッテは息を飲んだ。直に感じる体温に、頭がどうにかなりそうだ。心臓が早鐘を打つ。痛いくらいにそれを感じて、彼女は小さく息を吐いた。苦しい。早く、解放されたい。――いや、ずっとこのままでいたい。
 相反する二つの感情のどちらもが正しく自分のものであることを理解して、シャルロッテは目の前の黒い上着にしがみついた。
 かすかに、窓の向こうに足音が聞こえる。しかし、先客の姿を認めたのか、その足音はまた遠ざかっていった。
 しかし、シャルロッテはそれでも手を離すことができない。

 ――少しくらい、いいじゃない。

「……っ」

 しがみついた瞬間、ランベルトの腕に少しだけ力が籠った。その感触に身をゆだねて、シャルロッテは目を閉じる。
 今だけの恋人に、少しくらい甘えてもいいじゃない、と誰にともなく言い訳をするように心の中で呟く。
 社交シーズンも半ばを迎えている。こうして彼と二人、仲睦まじく装った姿を見せて歩くのも、きっとあと少しだろう。
 その間だけ、本当の恋人の様に甘えても、きっとランベルトは演技だと思うはずだ。
 だから、少しだけ――。
 シャルロッテは、目の前の広い胸に頬をつける。どくどくと心臓の音が聞こえて、それにうっとりと耳を傾けた。この距離が許されるのは、今だけだ。

 ――ついでに、少しくらい意識してくれればいいのに。

 切なく疼く胸のうちをほんの少しだけ滲ませて、シャルロッテの若葉色の瞳が潤む。しかしそれは、誰の目に留まることもなかった。



「だから申し上げましたでしょう……今日は決戦だと!」

 着替えを手伝ってもらいながら、今日の一部始終をざっとクラーラに話すと、彼女はにんまりと笑ってそう言った。

「そういうつもりじゃなかったんだけど……んっ」

 コルセットを緩められて、思わず息が漏れる。
 後ろに回ってひもを緩めながら、クラーラは大きな笑い声をあげた。

「だいたいね、あのエーミール様のことですから、絶対に姫さまに声をかけてくると私は思っていましたよ!」
「何がしたかったのか、さっぱりわからなかったけれどね」
「姫さまに運命の女性とやらを見せつけて、妬かせたかったんでしょうけど」

 肩をすくめたシャルロッテの髪を解きながら、クラーラが分析する。

「お話の通りなら、逆にあちらが見せつけられた、というところでしょうね」

 手櫛で髪を整えながら、クラーラが言う。そうね、と短く返事をするころには、驚きの手早さで緩い三つ編みが完成していた。渡された寝間着を着ると、行儀悪くベッドへと転がる。

「ん、ありがと……どうかしら、見せつけられた……のかしら」

 気のない調子でそう言うも、シャルロッテの頬はほんのりと赤い。兄かスヴェンの入れ知恵だとしても、あの言葉がちょっと嬉しかったのは秘密だ。誰もいなければ、思い出しながら、思いっきり足をバタバタさせたい。

「ランベルト様もやりますねえ、ダンスの相手は私だけ、かあ……まるで、物語の貴公子のようですね」

 ほう、とため息をついたクラーラが、胸の前で手を組む。うっとりとした表情を浮かべて、侍女は王女に視線を送った。

「その場面、ぜひ近くで見たかった……」
「そ、そう……?」

 さすが、長く仕えてくれている忠実な侍女は、主の胸キュンポイントを正確に突いてくる。思わず視線を逸らし、そう呟くシャルロッテであった。
< 13 / 35 >

この作品をシェア

pagetop