失恋王女と護衛騎士
2 失恋王女、噂される
「姫さま……ああ、なんておいたわしい」
「……何の話?」
エーミールとの面会からひとつきほど経ったある日、突然嘆き始めた侍女の言葉にシャルロッテは首を傾げた。
「エーミール様とのことですわ! まったく、あのぼんくら男、姫さまを袖にして、あんな、子爵家の娘と……!」
そう侍女は憤る。エーミールの名を聞いて、シャルロッテはぎくりと身体をこわばらせた。先日の、なんだか理解しがたい――したくない、記憶がよみがえる。
ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎくしゃくとした仕草で、シャルロッテは部屋の隅に控えている護衛騎士を振り返った。
「……いや、私ではありません」
「べつにあなたが話したとは思っていないけど、何か知っているのでしょう? 話してちょうだい」
その言葉に、一瞬だけ逸らされた蒼い瞳。ばつの悪い時にランベルトがやってしまう、癖みたいなものだ。
腐っても幼馴染の身である。それくらい、お互い良く知っていた。
「失敗した……こういう時に限って、俺の当番か」
はあ、と肩を落としたランベルトが、ぼそりと呟く。視線で続きを促すと、ランベルトは軽くため息をつき「私が直接見たわけではありませんが」と前置きしたうえで、その経緯を話した。それを聞いて、シャルロッテは怒りよりも先に呆れが来てしまう。
「……エーミールにいさまが、そんなことを?」
なんでも、今宮廷でもっとも噂になっているのが、シャルロッテ王女の失恋話だという。それも、サロンでエーミールが自ら吹聴しているというのだから、呆れるしかない。
もっとも、エーミールが真に聞いて欲しいのは、自分の見つけた真実の愛、とやらの話であって、シャルロッテの事はその話を盛り上げるための前座なのだとは思うが。どうやらそちらは、あまり話題になっていないらしい。残念なことである。
大きな鏡台の前に座り、髪を結われながら、シャルロッテは嘆息した。
「何を考えてらっしゃるのかしらね……」
「何も考えてらっしゃらないのでは?」
護衛騎士の辛辣な言葉に、シャルロッテは鏡越しに視線を向けた。どうにもこうにも面白くない、といった表情のランベルトをそこに見つけて、少しだけ意外な気持ちになる。
どうやら、彼は鏡に自分の顔が映っていることには気が付いていないようだ。髪を結っているので動かせないが心の中で、おや、と首を傾げたシャルロッテの耳に、ノックの音が聞こえる。控えている侍女に視線を送ると、心得た侍女が入室を許可した。
「殿下、そろそろご用意は……あれ、まだ?」
顔を覗かせたのは、もう一人の護衛騎士スヴェンだ。その言葉に、侍女があわてて作業を再開する。
今日は、社交シーズンに先駆けて行われる王宮での舞踏会だ。いわゆる、社交デビューを迎えた貴族の子女のお披露目会というやつである。
当然のことながら、王族の義務としてシャルロッテも出席せねばならない。普段は交代で付いてくれる護衛騎士も、今日は二人体制だ。
いつもは近衛隊の紺の制服を身につけている彼らも、今日は漆黒の騎士礼装に身を包んでいる。これが、王太子付きになると、純白になるのだが――。
鏡越しに二人の姿を確認して、シャルロッテはひっそりと思う。茶髪で、深い緑の瞳をしたスヴェンは、甘い顔立ちもあってそちらも似合いそうだけど、ランベルトにはこの漆黒の礼装の方が間違いなく似合う。
自分の想像に、少しだけおかしくなって、シャルロッテはくすりと笑った。
ざわざわ。
会場の中は人が溢れている。王宮で開かれる舞踏会は、国で一番盛大だ。おそらくは、国中の貴族たちがほぼ集まっていることだろう。
男性用の正装は黒や紺が多いが、女性たちはみなそれぞれ、色とりどりのドレス姿で舞踏会に花を添えている。それを王族席からぼんやりと眺めながら、シャルロッテはこっそりため息をついた。どうにも首筋がちくちくする感覚がむずがゆい。
ちらちらと、あちこちから視線を感じる。こそこそと、話す言葉のはしばしが耳に届く。
「……ほんと、何考えてるのかしら」
「何も考えてらっしゃらないのでは」
つい何時間か前にしたやりとりを、まったく同じ調子で繰り返して、シャルロッテは首をすくめた。会場の中ほどに、人だかりがあるのが見える。その中心にいるのが、従兄とその連れの令嬢であることが、シャルロッテのいる場所からよく見えていた。
今日の従兄殿は、目の覚めるような緑の上着をまとっている。相変わらず派手好きだが、似合ってしまうのだから大したものだ。それに合わせたのか、深緑のドレス姿で隣に立つ令嬢――あれが、コンなんとか嬢、と思ったところで背後のランベルトから「コルネリア嬢ですよ」と訂正が入った。どうやらこの護衛騎士、読心術ができるらしい。
「いや、口から漏れてましたよ」
「……そうだったかしら」
ともかく、呆れ顔のランベルトは置いておいて、シャルロッテは会場を見渡した。
そちらと、こちらと。見比べて、こそこそと話す言葉の中に「失恋王女」というワードが聞こえる。なかなか心をえぐってくる言葉だ。シャルロッテは少し傷ついた。相手が違うだけで、似たような状態ではあるのだけれど、それはそれだ。別に振られたわけじゃない。
まあ、姫さまがおかわいそう、だの、真実の愛とはうらやましい、だの、囀る言葉はうっとおしいことこのうえない。このうえないのだが――まさか、シャルロッテが乗り込んでいっていちいち事実を説明することなどできるわけもない。気軽に噂話に首を突っ込める立場ではないのだ。
もう帰りたい、とシャルロッテが思ったところで、誰も責められないだろう。しかし、せめてもう少し会場にいなくては王族として責務を果たしたとは言い難い。ダンスの一回や二回くらいは踊っておかなければいけないだろう。
いつもであれば、エーミールがしゃしゃり出てきて相手を務めてくれていたのだが、今日は期待できそうにない。というかしたくもない。
そういえば、いつも疑問だったのだ。なぜ自分のダンスの相手をエーミールがわざわざ務めてくれるのか。あれは、シャルロッテと将来的に結婚するつもりでいた――もしかすると既に婚約者気取りだったのかもしれない。諦めてくれとかのたまうくらいだから、可能性は高い。従兄だし、他に相手になりそうな人もいないし、と思って踊っていたが、その対応も勘違いを助長していたかもしれない、と今頃気づいてしまった。失敗した。
げんなりとした顔のシャルロッテの前に、手が差し出された。漆黒に、金の刺繍が入った、騎士の礼装の袖口が見える。顔を上げると、ちょっとむっつりとした顔のランベルトと目が合った。
「僭越ながら、今日は私が殿下のお相手を務めさせていただきます」
「そこは『お手をどうぞ』だけでいいんだよ……」
スヴェンが天を仰ぎながら言う。そこで、シャルロッテはぼんやりしている間にダンスの時間が来たことに気が付いた。
「え、あ」
ランベルトとダンスをする、なんて。
この瞬間だけ、シャルロッテはエーミールの愚行に深く感謝した。あわてて、ランベルトの手に自分の手を重ねる。手汗をかいたりしていないかしら、と王女にあるまじきことを考えたところで、ランベルトが耳元にこっそりと囁いた。
「申し訳ありませんが、ダンスなど久しぶりですので……」
背筋がぞわっとしてしまうから、やめてほしい。どきどきしながら、真っ赤な顔で頷くと、シャルロッテは護衛騎士のエスコートでダンスの輪の中へと入っていった。
漆黒の騎士礼装姿のランベルトと、ふんわりとした薄紅色のドレス姿のシャルロッテに、周囲は感嘆の視線を送った。なかなかどうして、久しぶりという割にはランベルトのリードは様になっているし、シャルロッテのステップも、心なしかいつもよりも軽い。常に側にいるだけあって、二人の息はぴったりとあった。意外にも、お似合いの二人に見える。
ざわざわ。その姿に、貴族たちはまた新たな噂の種を嬉々として育て上げる。
それには気付かず、シャルロッテはなんだか幸福な気分で舞踏会を乗り切ったのであった。
「……何の話?」
エーミールとの面会からひとつきほど経ったある日、突然嘆き始めた侍女の言葉にシャルロッテは首を傾げた。
「エーミール様とのことですわ! まったく、あのぼんくら男、姫さまを袖にして、あんな、子爵家の娘と……!」
そう侍女は憤る。エーミールの名を聞いて、シャルロッテはぎくりと身体をこわばらせた。先日の、なんだか理解しがたい――したくない、記憶がよみがえる。
ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎくしゃくとした仕草で、シャルロッテは部屋の隅に控えている護衛騎士を振り返った。
「……いや、私ではありません」
「べつにあなたが話したとは思っていないけど、何か知っているのでしょう? 話してちょうだい」
その言葉に、一瞬だけ逸らされた蒼い瞳。ばつの悪い時にランベルトがやってしまう、癖みたいなものだ。
腐っても幼馴染の身である。それくらい、お互い良く知っていた。
「失敗した……こういう時に限って、俺の当番か」
はあ、と肩を落としたランベルトが、ぼそりと呟く。視線で続きを促すと、ランベルトは軽くため息をつき「私が直接見たわけではありませんが」と前置きしたうえで、その経緯を話した。それを聞いて、シャルロッテは怒りよりも先に呆れが来てしまう。
「……エーミールにいさまが、そんなことを?」
なんでも、今宮廷でもっとも噂になっているのが、シャルロッテ王女の失恋話だという。それも、サロンでエーミールが自ら吹聴しているというのだから、呆れるしかない。
もっとも、エーミールが真に聞いて欲しいのは、自分の見つけた真実の愛、とやらの話であって、シャルロッテの事はその話を盛り上げるための前座なのだとは思うが。どうやらそちらは、あまり話題になっていないらしい。残念なことである。
大きな鏡台の前に座り、髪を結われながら、シャルロッテは嘆息した。
「何を考えてらっしゃるのかしらね……」
「何も考えてらっしゃらないのでは?」
護衛騎士の辛辣な言葉に、シャルロッテは鏡越しに視線を向けた。どうにもこうにも面白くない、といった表情のランベルトをそこに見つけて、少しだけ意外な気持ちになる。
どうやら、彼は鏡に自分の顔が映っていることには気が付いていないようだ。髪を結っているので動かせないが心の中で、おや、と首を傾げたシャルロッテの耳に、ノックの音が聞こえる。控えている侍女に視線を送ると、心得た侍女が入室を許可した。
「殿下、そろそろご用意は……あれ、まだ?」
顔を覗かせたのは、もう一人の護衛騎士スヴェンだ。その言葉に、侍女があわてて作業を再開する。
今日は、社交シーズンに先駆けて行われる王宮での舞踏会だ。いわゆる、社交デビューを迎えた貴族の子女のお披露目会というやつである。
当然のことながら、王族の義務としてシャルロッテも出席せねばならない。普段は交代で付いてくれる護衛騎士も、今日は二人体制だ。
いつもは近衛隊の紺の制服を身につけている彼らも、今日は漆黒の騎士礼装に身を包んでいる。これが、王太子付きになると、純白になるのだが――。
鏡越しに二人の姿を確認して、シャルロッテはひっそりと思う。茶髪で、深い緑の瞳をしたスヴェンは、甘い顔立ちもあってそちらも似合いそうだけど、ランベルトにはこの漆黒の礼装の方が間違いなく似合う。
自分の想像に、少しだけおかしくなって、シャルロッテはくすりと笑った。
ざわざわ。
会場の中は人が溢れている。王宮で開かれる舞踏会は、国で一番盛大だ。おそらくは、国中の貴族たちがほぼ集まっていることだろう。
男性用の正装は黒や紺が多いが、女性たちはみなそれぞれ、色とりどりのドレス姿で舞踏会に花を添えている。それを王族席からぼんやりと眺めながら、シャルロッテはこっそりため息をついた。どうにも首筋がちくちくする感覚がむずがゆい。
ちらちらと、あちこちから視線を感じる。こそこそと、話す言葉のはしばしが耳に届く。
「……ほんと、何考えてるのかしら」
「何も考えてらっしゃらないのでは」
つい何時間か前にしたやりとりを、まったく同じ調子で繰り返して、シャルロッテは首をすくめた。会場の中ほどに、人だかりがあるのが見える。その中心にいるのが、従兄とその連れの令嬢であることが、シャルロッテのいる場所からよく見えていた。
今日の従兄殿は、目の覚めるような緑の上着をまとっている。相変わらず派手好きだが、似合ってしまうのだから大したものだ。それに合わせたのか、深緑のドレス姿で隣に立つ令嬢――あれが、コンなんとか嬢、と思ったところで背後のランベルトから「コルネリア嬢ですよ」と訂正が入った。どうやらこの護衛騎士、読心術ができるらしい。
「いや、口から漏れてましたよ」
「……そうだったかしら」
ともかく、呆れ顔のランベルトは置いておいて、シャルロッテは会場を見渡した。
そちらと、こちらと。見比べて、こそこそと話す言葉の中に「失恋王女」というワードが聞こえる。なかなか心をえぐってくる言葉だ。シャルロッテは少し傷ついた。相手が違うだけで、似たような状態ではあるのだけれど、それはそれだ。別に振られたわけじゃない。
まあ、姫さまがおかわいそう、だの、真実の愛とはうらやましい、だの、囀る言葉はうっとおしいことこのうえない。このうえないのだが――まさか、シャルロッテが乗り込んでいっていちいち事実を説明することなどできるわけもない。気軽に噂話に首を突っ込める立場ではないのだ。
もう帰りたい、とシャルロッテが思ったところで、誰も責められないだろう。しかし、せめてもう少し会場にいなくては王族として責務を果たしたとは言い難い。ダンスの一回や二回くらいは踊っておかなければいけないだろう。
いつもであれば、エーミールがしゃしゃり出てきて相手を務めてくれていたのだが、今日は期待できそうにない。というかしたくもない。
そういえば、いつも疑問だったのだ。なぜ自分のダンスの相手をエーミールがわざわざ務めてくれるのか。あれは、シャルロッテと将来的に結婚するつもりでいた――もしかすると既に婚約者気取りだったのかもしれない。諦めてくれとかのたまうくらいだから、可能性は高い。従兄だし、他に相手になりそうな人もいないし、と思って踊っていたが、その対応も勘違いを助長していたかもしれない、と今頃気づいてしまった。失敗した。
げんなりとした顔のシャルロッテの前に、手が差し出された。漆黒に、金の刺繍が入った、騎士の礼装の袖口が見える。顔を上げると、ちょっとむっつりとした顔のランベルトと目が合った。
「僭越ながら、今日は私が殿下のお相手を務めさせていただきます」
「そこは『お手をどうぞ』だけでいいんだよ……」
スヴェンが天を仰ぎながら言う。そこで、シャルロッテはぼんやりしている間にダンスの時間が来たことに気が付いた。
「え、あ」
ランベルトとダンスをする、なんて。
この瞬間だけ、シャルロッテはエーミールの愚行に深く感謝した。あわてて、ランベルトの手に自分の手を重ねる。手汗をかいたりしていないかしら、と王女にあるまじきことを考えたところで、ランベルトが耳元にこっそりと囁いた。
「申し訳ありませんが、ダンスなど久しぶりですので……」
背筋がぞわっとしてしまうから、やめてほしい。どきどきしながら、真っ赤な顔で頷くと、シャルロッテは護衛騎士のエスコートでダンスの輪の中へと入っていった。
漆黒の騎士礼装姿のランベルトと、ふんわりとした薄紅色のドレス姿のシャルロッテに、周囲は感嘆の視線を送った。なかなかどうして、久しぶりという割にはランベルトのリードは様になっているし、シャルロッテのステップも、心なしかいつもよりも軽い。常に側にいるだけあって、二人の息はぴったりとあった。意外にも、お似合いの二人に見える。
ざわざわ。その姿に、貴族たちはまた新たな噂の種を嬉々として育て上げる。
それには気付かず、シャルロッテはなんだか幸福な気分で舞踏会を乗り切ったのであった。