失恋王女と護衛騎士
 今日の夜会の会場は、グレッツナー公爵家。リヒャルトの婚約者、ソフィーアの生家である。建国当時の国王の弟を祖とする、最も古い貴族の一つだ。
 ただ、彼らは政治の中枢に居座ることを拒み、主に外交の分野などで王家を助けている。
 ソフィーアが王太子との婚約を結ぶにあたっては、当代当主であるダニエル・フォン・グレッツナーは最後まで反対であったという噂まで出たほどだ。
 シャルロッテが思うに、あれはグレッツナー公爵が娘を手放したくなかっただけで、誰であっても反対されただろう。
 外交分野では、年齢にかかわらずシャルロッテも国賓をもてなす側に回る。娘と年の近い王女を、公爵は殊の外可愛がってくれていた。遅くに出来た娘のことを、目尻を下げて話す様子をよく覚えている。最初に聞いた時は、知らないうちにもう一人娘が生まれたのかと思ったのは秘密だ。

「うーん、今日は大船に乗ったつもりで、大丈夫かしら……?」

 クラーラの選んだドレスに袖を通しながら、シャルロッテは宙を見上げた。公爵家の夜会となれば、またエーミールと遭遇することもあるだろう。前回の様子から考えて、またちょっかいをかけてこないとも限らない。
 ただ、まあ――グレッツナー公爵家は、三公爵の中でも筆頭の地位にある。宮廷内の役職で上回ってはいても、貴族間の序列が変わるわけではない。
 格上の貴族の邸で不用意な行動はしないだろうが、用心しなければ。まぁ、そもそも役職についているのはエーミールの父であって本人ではないのだが。
 調子に乗りやすいエーミールが、勘違いしないことを祈るのみである。
 シャルロッテは、頬をぺちんと叩いて気合いを入れた。
 先日、二人で過ごしてから、ランベルトの空気は以前よりも緩くなっている。今日は一段と親しげな姿をみせつけてやろう。

「まあ、姫さま、お顔が赤くなってしまいます……さ、ご準備整いましたよ」

 クラーラに促されて、シャルロッテは鏡の前で自分の姿を確認した。いつもより少しだけ大人びたドレス。
 よおし、ともう一度気合いを入れて、シャルロッテは部屋の扉を開けた。



 グレッツナー公爵家の玄関ホールには、今日の招待客が列をなしている。古い邸宅だが、丁寧に手入れと修繕を繰り返されたそこは、重厚な威厳に満ちていた。
 いかにも格式のある風情に、シャルロッテは感嘆の息をつく。
 その時、なんとなく首元にちりりとした感触を覚えて、シャルロッテは辺りを見回した。どうも、ちらちらと見られているような気がする。シャルロッテは微かに眉を潜めた。
 ここのところのあれやこれやで、噂をされることにはすっかり慣れてしまっている。それもどうかと思うが。
 しかし、今日感じるのはそういった好奇心に満ちた視線とは少し違っていた。

「……なにかしら」
「シャルロッテ様?」

 受付を済ませたランベルトが、シャルロッテの手を取るとその顔を覗き込む。蒼い瞳が心配そうな気色を浮かべている。

「どうかした?」
「う、ううん……なんでもないの」

 ちら、と横目で周囲を窺うと、扇で口元を隠した貴婦人と目が合う。その目元がゆっくりと細められ、シャルロッテとランベルトをじっくりと眺めている。扇に隠された口元に浮かんだ笑みが透けて見えたような気がして、シャルロッテはぶるりと身体を震わせた。

「早く行きましょう……グレッツナー公爵にご挨拶しなければ」
「そうですね、さ、シャルロッテ様」

 微笑みを浮かべたランベルトが手を差し出す。それにゆっくりと手を乗せながら、シャルロッテは先ほど見た貴婦人の笑みの意味を考えていた。



「グレッツナー公爵、本日はお招きいただき……」
「シャルロッテ殿下、ようこそおいでくださいました。ふふ、堅苦しい挨拶などしないでください。シャルロッテ殿下、また一段とお綺麗になられましたなあ……」
「まあ、グレッツナー公爵は口がうまくなられましたね」

 久しぶりに顔を合わせたダニエルは、シャルロッテの顔を見ると相好を崩した。そして、一通りの挨拶が済むと、彼はシャルロッテの隣におとなしく控えていたランベルトに視線を移す。

「君は、ヘルトリング辺境伯のご子息――でしたな。父君は息災かね」
「は……はい、領地で元気にやっております」

 これまで、どこの夜会に招待されても、ランベルトに直に声をかけてきた主催者はいない。いつものことであるため、ランベルトは特にそのことについて思うところはない。かえって助かったと思っていたくらいである。だが、突然声をかけられ、思わず面食らったランベルトに、ダニエルはしてやったりの笑顔を浮かべた。

「これまでは、君はシャルロッテ殿下の護衛としてついてきていたからな……みな、その習慣が抜けないのだろう」

 はっはっは、と一際大きな笑い声を上げて、ランベルトの肩を叩くと、グレッツナー公爵は灰色の瞳をきらりと光らせる。

「ところで――今日は、この場でいい話を聞かせてもらえるのかな?」
「は……?」
「ちょっと、グレッツナーのおじさま……! なんのことなの?」

 やにわに真面目な顔つきになったダニエルに、焦ったシャルロッテは、ついいつものように呼びかけてしまう。すると、それまで隣で微笑んでいたグレッツナー公爵夫人、カサンドラがとうとう待ちきれず口を挟んできた。

「もう、嫌ですわ……すっかり噂になっていますのよ、お二人のこと。もしかしたら、そろそろいいお話が聞けるんじゃないかって、みんなで話していましたの」

 カサンドラの言葉に、シャルロッテは内心で頭を抱えた。これは少し困ったことになった、と慌てふためきながらもどうにかそれを表情に出すのを堪える。厳しかった過去のマナー教師に心の中で感謝した。今こうして叫び出さないでいられるのは、あなたのおかげです。――いや、今はそれどころではない。
 実を言えば、ここまで一連の「噂」について、こう正面切って問われたことはない。エーミールとのことにしても、ランベルトのことにしても、だ。
 昔から親しくしており、また兄の婚約者の家だからと油断していたのがいけなかった。むしろ、こういった話題を本人から聞き出すのに、最適の人物だ。それに、カサンドラは昔から噂好きで有名なのだ。
 冷や汗をかくシャルロッテの背中に、暖かい手がそっと触れた。え、と顔を上げるのと、ランベルトが口を開くのはほぼ同時だった。

「お恥ずかしい限りです。いいご報告ができれば、と思っていたのですが……」

 そこで、ちらりとシャルロッテの顔を見て微笑む。任せておけ、とでも言うかのように軽く片目をつぶって見せると、彼は笑顔でダニエルへと向き直った。

「残念ながら、今のところは、まだ」
「そうか、それは残念だな」

 本当に残念そうな顔を見せるダニエルに、シャルロッテの心が痛む。
 だが、その直後ランベルトが放った言葉に目をむいた。

「でも……そうですね、近いうちに、殿下に頷いていただけるよう、努力したいと思います」
「あ、あら、まあ……」

 シャルロッテの肩を抱き寄せ、力強く宣言するランベルトに、カサンドラが頬を染める。当のシャルロッテは、口をパクパクさせ、表情をとりつくろうこともままならない。
 ああ、マナーの先生ごめんなさい。シャルロッテは良い生徒ではなかったようです。現実逃避のようにそんなことが頭をよぎる。
 当主夫妻の生温い視線に見送られ、半分魂の抜けたまま、シャルロッテはその場を後にした。
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