会うことは決まっていた
3.
 目を覚ますと、そこは和室で知らない香りがした。
 
(ここどこ? 私……あっ)

 記憶が戻り、草壁薬局の店内で倒れたことを思い出した。
 史さんが寝かせてくれたのか、座布団を枕にして薄いタオルケットをかけてもらっている。

「いけない、私……迷惑かけちゃった」

 のそりと起き上がると、すんっと墨汁の香りがして周りを見回した。
 すると、視界に勇ましい瞳の龍が飛び込んできて驚く。

(これ……水墨画?)

 部屋には何枚もの水墨画が散らばっていて、どれも素人とは思えない緻密さと迫力があった。

(龍の目が……すごい力を放ってる)

 しばらく絵から目を離せずにいると、襖がスッと開いた。
 史さんが顔を出し、私が起きているのを見て安心したように微笑んだ。

「目が覚めた?」
「はい。あの……ご迷惑をおかけしました」

(この人、微笑むとすごく優しい顔になるんだよね……ずるいな)

「気分は?」
「悪くないです」
「そう」

 側に座った史さんは、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくれた。

「半分くらい飲んだ方がいいよ」
「はい。ありがとうございます」

 遠慮なくそれを受け取り、カラカラの喉に半分通す。
 ふっと意識も楽になって、ようやく頭もクリアになってくる。

「ここは史さんのお部屋なんですか?」
「うん、まあ」

(ってことは、この水墨画も彼の作品ってこと?)

 黒と白の濃淡で繊細に描かれたそれらの絵を見つめていると、史さんの方から話を始めた。

「まだ名前はそれほど売れてないけど、一応俺、画家をしててね」
「え、薬剤師さんじゃないんですか」
「医者の免許は持ってる。中医学を学びたくて中国まで行ったけど、結局そこで水墨画にハマって医学の道は捨てたんだ」
「そうなんですか」
「まあ、家族の誰も画家になるなんて認めてくれなくてさ……勘当されて久しいよ。今は結局、こんなふうに根無草ような生き方をしてる」

(お医者様を辞めるほどなんだから、きっとすごく絵を描くことに魅せられたんだな)

「絵を描くことは、史さんにとってとても大切なことなんですね」
「そうだな……描いている時ばかりは“生きてるな“って実感するから」

 見た目はふらふらしている人に見えたけれど、芯には太く通ったものがあるのだとわかった。
 取り柄のない男が草壁家に寄生してるんじゃないか、なんて噂を真に受けていた自分が恥ずかしい。
 
「きっと、認められると思います。史さんの水墨画」

(圧倒する迫力がありながら、どこか繊細で優しい……人を癒す絵だもの)

「ありがとう。でも、売れるとか売れないとかは実はあんまり考えてない」
 
 史さんは自分の胸に指を当てて、私を見る。

「ここに嘘がないって状態が、俺にとっては一番いい状態なんだよ」
「嘘……」
「周りの評価はいい加減だ。他人軸で生きることは自分を捨てることと同じなんだ」

 その言葉に私はドキリとした。
 自分も同じように、他人軸で生きている人間の一人だからだ。

(夫からの評価で生きる希望を失うほどに……自分を捨てている)

「史さんは、自分軸で生きてらっしゃるんですね」
「俺自身も昔は他人軸だったから。ひとのことは言えない」

 苦笑を浮かべながら彼は続ける。

「俺が医者だと知ると態度を変える奴が多いことに気づいて、色々嫌になったのがきっかけだ。売れもしない水墨画を描いてるって知れば誰も相手にしない。それが心地よかった」

(私には想像のつかない気持ちだな)

「ただ、中には”売れない画家”っていうのに執着するタイプの人間もいて。まあ……翠はそういう類の人だ」
「翠さん、って。奥さんでしょう?」

 ご夫婦なのにどこかよそよそしい言い回しに、違和感を覚える。

「名目上はね。籍は入れてない」

 あっさり言い放った史さんは特に悪びれる様子もなく、続けて今の状況を簡単に語った。

「翠とはアパートが隣同士で、俺が絵を描いてるのを知って時々作品を見にくるようになったんだ。で……ひょんなことから医師免許持ってるのを知られて。実家の薬局がピンチだから助けて欲しいって言われたわけ」
「それでこの家に?」
「まあ。アトリエとして一部屋貸してくれるっていうし、店を手伝うくらいならと思って」

 言いながらも、今の状況が決して望んだ形でないのが表情からも窺い知れた。

「ご夫婦になることは承諾してなかったってことですか?」
「……俺もすぐに出ていく金がなかったのが現実だから、仕方ない」

(翠さんは、史さんをヒモ状態で家に留まらせたかったってこと?)

 翠さんの必死さが伝わってきて、なんだかこちらまで苦しくなってくる。
 だって、この人はきっとそんな条件で縛り付けられる人じゃない気がするから。

「でもここに来たのは間違いじゃなかった」

 そう言って史さんは私の方を真っ直ぐに見た。

「もう随分前から瑠璃さんと会うことは決まってた、って言ったら信じる?」
「決まってた?」

 突然の史さんの言葉に、頭がフリーズする。
 知り合う前から会うことは決まってたなんて、そんなことあるだろうか。
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