忘れさせ屋のドロップス

 ダブルベッドのスプリングが軋む。俺は起き上がると有桜の方を振り返った。

 海で、はしゃいでいたからな。有桜は、一緒に、ベッドに寝転んですぐに眠ってしまった。

 あんなに嬉しそうに、子供みたいに無邪気に笑う有桜も、貝殻を拾いながら海のことを興奮して沢山話す有桜も、初めて見た。


単純に、可愛いなと思った。


 顔をこちらに向けたまま、黒い毛布をすっぽり被って静かな寝息を立てている。


「相変わらず危機感ってもんがねーな」

 有桜が大事そうに、枕元に置いているガラス瓶を持ち上げて月の光に翳してみる。


 俺にとって、あの海と、あのテトラポットから見る景色は特別で、今まで那月以外と一緒に行ったこともなかったし、華菜にせがまれても一度も連れて行かなかった。


ーーーーあと、女の前で俺は初めて泣いた。

 正直、自分でも驚いた。那月の葬式でも俺は姉貴や秋介の前で泣かなかったから。

 有桜を抱き締めてたら、何だかほっとして、気づいたら涙が溢れてた。那月を思い出して泣いたんじゃない。

 あんまりにも、有桜が俺の為に泣くから、泣き止ませてやりたくて、有桜自身を見てやれないことが、とにかく苦しかった。

 俺はほとんど無意識に有桜にキスをした。言葉じゃうまく伝えられなかったから。

『遥、大丈夫だから』

 俺は有桜の言った言葉が那月の口癖と重なって、思わず抱き締めて、ほんの一瞬、有桜が心から欲しいと思った。

 特別な感情ではなくて、有桜が、息ができるように、俺も息ができるように。ただ、有桜が泣かなくてすむように。ただ、抱き締めて側に居たかった。

 それが恋でもなくて、何でもなくて、寂しさを包むだけのものだと俺は分かっているのに。

 でも、俺はたしかに有桜を腕に抱いて、ほんのすこしだけ未来も一緒に抱きしめた気がしたんだ。

 ガラス瓶をそっと元に戻して、有桜の方を向いて横になる。俺は毛布から飛び出している有桜の小さな左手を握りしめた。

「おやすみ……有桜」

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