愛を知るまでは★イチゴキャンディ編★
厳しい家庭教師
照り付ける残暑の日差しが強かった9月が終わり、秋風に銀杏の葉が揺れる10月がやって来た。
文化祭や体育祭といったお祭り騒ぎが終わり、休み明けのテストの出来が散々だった私は、
本格的に勉強に取り組まなければならない時期に来ていた。
そうしないと希望の大学になんて、とても手が届かない。
私はママに塾に行きたいと訴えた。
しかしその訴えは速攻却下された。
「つぐみは塾には向いていないってこと、自分でもよく判っているでしょ?」
「でも、あれは小学生の時の事だし・・・」
私は中学受験のため、小学校4年の頃から塾に通っていた。
しかし私の成績は、その馬鹿高い授業料に見合うほど右肩あがりに上ることはなかった。
内気な私は塾の先生にも持ち前の人見知りを発動してしまい、わからない問題があっても聞きにいくこともままならず、結局塾に行くことすら放棄してしまったのだ。
小学校6年生になり窮地を迎えた私のために、ママは自らの友人の娘である丸山好子先生に家庭教師を頼んでくれたのであった。
好子先生は優しくて教え方も上手で親しみやすい、私にとってすごく良い先生だった。
私が学校の男子にいじめられているという話をすると、諭すように人差し指と親指でL字型を作ってみせた。
「男の子なんてね、ゴリラだと思えばいいのよ。ゴリラに何言われたって痛くもかゆくもないでしょ?だってバナナ大好きしか能のないゴリラですもの。」
私はその話を聞いてお腹の底から笑ってしまった。
男の子はゴリラ、か。
そうね。ゴリラや猿やオラウータンと一緒。
いやそれらの方がまだ可愛げがあるってものだ。
私は学校の教室で騒ぐ男子たちをそう思うことで、高みの見物をするように自らを守っていた。
ママの話によると好子先生は、すでに結婚して3人の男の子の母親になっているらしい。
好子先生は3匹のゴリラを上手く育てることが出来ているのだろうか。
「やっぱりつぐみは家庭教師の方が向いていると思うわ。」
「でも家庭教師っていっても、いまから好子先生みたいないい先生が見つかるかな?」
「あら、いるじゃない。我が家にうってつけの人が。」
「え?」
「鹿内君ならつぐみも打ち解けているし、なんてったってあの高偏差値の大学に通っているんですもの。それも教育学部だっていうし、きっと教え方も上手だと思うわ。」
「そ、それはちょっと・・・」
「ママはいつでもつぐみの味方よ。」
ママはそう言って、ウインクしてみせた。
まだママの中では、私と鹿内さんは付き合っている設定になっているのだった。
ああ!なんてややこしいことになっちゃったんだろう?
鹿内さん相手じゃ変に意識しちゃって、数学の公式も古典の四段活用も頭に入ってくるはずない!
でもママはそんな私の意思とは無関係に、勝手に鹿内さん相手に私の家庭教師になってくれるよう話を進めてしまった。
鹿内さんはギャラが良かったからなのか、二つ返事で了承したという。
毎週金曜日、17時から19時の2時間が鹿内さんの家庭教師時間となった。
「最初に言っておくけど、俺はスパルタだから。そこんとこ、ヨロシク。」
家庭教師第一日目、鹿内さん、いや鹿内先生の授業は往年のロックミュージシャンみたいなその一言から始まり、私は思わず噴き出した。
「あはっ!世界のYAZAWAですか?」
「うるせーな。ノリで言ってみただけだから、そこ突っ込むな。」
でもその一言で、一気に肩の力が抜けた。
もしかして鹿内さん、私の緊張をほぐすために、似合わない冗談を言ってくれたのかな?
鹿内さんの耳がほんのり赤い。
「とりあえず過去のテストの実績を見せて。」
私はしぶしぶ、新学期始まってすぐのテスト回答用紙を勉強机の引き出しの奥から取り出した。
現代文、古典、数学、生物、政治経済。
一枚ずつ用紙をめくるごとに、鹿内さんの顔つきが険しくなっていった。
そして最後の一枚を穴があくまで眺めたあと、大きくため息をついた。
「おい。つぐみ。大学入る気、本当にあんの?」
「それは・・・もちろんあります!そのために家庭教師してもらっているワケですし・・・」
「じゃあ今日から、マジで勉強に取り組め。
生半可な気持ちで受験戦争を勝ち抜けると思うなよ。」
「・・・わかりました。」
なまじ高校入学がエスカレーター式で楽をして上がれたため、高校に入ってもその生ぬるさが抜け切れず、結果今の成績に至った自分が情けなかった。
「じゃ、今日は古文から始める。この文章、5分で読んで。」
鹿内さんは分厚い参考書から、いにしえの人々が書いた文章のページを開くと机の上に置き、自分は木製の椅子にドカリと座り、腕を組んで目を瞑った。
「かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもひを」
百人一首にも選ばれている藤原実方の歌だ。
現代語訳に直すと「せめてこんなにもあなたを想っているということだけでも言いたいのですが言えません。まして伊吹山のさしも草ではないけれど、私の想いもこんなに激しく燃えているとは、貴女は知らないことでしょう。」とある。
なんてロマンチックな恋歌なのだろう。
私がうっとりしているにも関わらず、鹿内さんの淡々とした説明が私の耳に流れ込んで来る。
「このさしも草っていうのはヨモギのことだ。お灸のもぐさの原料にもなっている草のこと。
その草みたいに自分の心が誰かのために激しく燃えているっていう意味だ。この歌は清少納言に贈ったと言われている。」
「素敵ですよね!千年前の人達も、熱く秘めた恋をしていたってことでしょ?」
「この藤原実方って男は、相当モテていたみたいだな。
でもこの歌が実方の書いた初めてのラブレターらしい。」
「へえ。モテ男ってまるで誰かさんみたいですね?
令和のモテ男さんは、いつ初ラブレターを書いたんですか?」
「は?令和のモテ男って俺のことか?」
「鹿内先生しかいないじゃありませんか!」
私は、顎に手を乗せて、ニヤニヤしながら鹿内さんの顔を見上げた。
「ラブレターなんか書いたことないよ。」
「もらったことはあるけど?」
私は白い封筒に入っていた美也子さんのメッセージを思い出していた。
「ああ。何通貰ったか、数えられない程度には。」
鹿内さんは面倒くさそうに言った。
「つぐみこそ書いたことあるの?」
「ありますよ?小学校のとき、信二兄ちゃんに。いっぱい遊んでねって。」
「はいはい。信二兄ちゃん、ね。・・・でも俺だって熱く秘めた想いくらい知っているよ。」
「愛を知らないのに?」
「愛よりももっと深い想いさ。」
「・・・その相手ってどんなひと?」
「つぐみになんか教えない。」
「ケチ!」
鹿内さんからそんなにも深い想いを寄せられている人が羨ましい。
美也子さんのことだろうか?
それとももうどこか遠くに行ってしまった人?
「そんなことより古文の単語の意味や文法を早く覚えろ。」
「はーい。」
「はーいじゃない。返事ははい、と短く言え。そういうところから気の緩みが出てくるんだぞ。」
「はい!」
「よろしい。」
私は難しい漢字が羅列する文章を必死で頭に叩き込みながらも、心では別の事を考えていた。
もし鹿内さんが家を出て行くことになっても、私の大学受験が終わるまではこうして会うことが出来る。そう考えるとママの強引さには感謝しなくてはならない。
でも私の成績が思うように上がらなければ、鹿内さんに軽蔑されてしまうだろう。
それは何が何でも避けたい。
不純な動機かもしれないけど、これからは真面目に勉強に励もうと思った。
「・・・5分経ったぞ。じゃ、この問題解いてみろ。」
私はシャープペンシルの芯をカチカチと出して、問題集の問いの文を目で追っていった。
鹿内さんの授業は言葉遣いこそ悪いけれど、簡潔かつ丁寧な説明でとても分かり易かった。
私は鹿内さんに褒められたくて、学校の休み時間も、家に帰ってきてからも、机に向かい必死に勉強をし始めた。
その甲斐あってか、小テストの点数も少しづつ上がってきた。
今日の3時限目は体育でバスケットボールの授業だった。
自分のチームの試合が終わり、体育座りで他の子達がボールをゴールに入れる様子をぼんやり眺めていた私の横に、沙耶がよっ!と言いながら座った。
「つぐみ、やるじゃん。ゴール3回も決めていたね。ナイスショット!」
「まぐれよ。まぐれ。」
でもまぐれだろうとなんだろうと、運気があがってきているようで、ちょっと嬉しい。
「そういえばどうしたの?最近、やけに勉強に励んでいるじゃん。」
「ちょっとね。家庭教師の先生がめちゃくちゃ怖い人でさ。
私が少しでも変な答えを出すと、ヤの付く自由業の人みたいに睨むんだから。」
「え?つぐみ、家庭教師なんて付けているんだ。もしかして男?」
「そうだけど。」
「若いの?」
「まあ・・・大学3年生かな。」
「へえ。男嫌いのつぐみが、よく受け入れたね。」
「・・・というか、鹿内さん。」
「マジか?!・・・ということはよ。限られた数時間を密室で鹿内さんと二人きりで過ごしているってことでしょ?
つぐみ大丈夫?もしかしてもう奪われちゃった?」
「奪われちゃったってなにをよ。」
「決まっているでしょ。バージン!」
沙耶の言葉に私は耳まで真っ赤になった。
「そんなわけないでしょ!
私はいたって真面目に勉学に取り組んでいるんだから変なこと言わないでよね!」
「ムキにならないでよ。ほんの冗談じゃん。」
冗談でもそんなこと言わないでよね。
次の家庭教師の授業のとき、変に意識しちゃうじゃない。
実は私だってちょっぴり期待していた。
少女漫画みたいな、ドラマチックでロマンチックな展開があるかもしれない、なんてことを。
ふとした瞬間に手と手が触れあってしまうとか、顔と顔が触れ合うくらい接近してしまってお互いドキドキするとか、そんなシチュエーションがあるかもしれない、なんてことを。
でも現実はそんなに甘いものではなかった。
鹿内さんにとって私の家庭教師をやるということは、その体力的消耗の割には、短時間に高収入が手に入る美味しいバイトでしかない。
そこに色恋などというふんわりとした夢物語が入り込む隙間などありはしない。
あるのは勉強という手段と、努力という過程と、テストの点数という結果、そして大学受験への切符となる偏差値を手に入れるという目的、これしかないのだった。
「せっかく髪型可愛くして、変身したと思ったら、今度は大学受験のための猛勉強か。ホント、最近のつぐみは何か変わったよね。」
そう言って沙耶は私の全身を舐めまわすように眺めた
「そういう沙耶は、大学受験しないの?」
「しなーい。私はネイリストになりたいの。だからその専門学校に行くつもり。」
「そんな話、初めて聞いた。」
「聞かれなかったから、言わなかっただけ。これでも将来の事いろいろ考えているんだから。」
しっかりとした夢を持っている沙耶が、なんだか急に大人びてみえた。
考えてみれば、私はなんで大学に行きたいのだろう。
特にやりたい勉強もなければ、なりたい仕事もない。
学歴社会だから?一応入っておけば安心だから?
私は将来のためにどこへ向かって進んでいけばよいのだろう?
「鹿内さんはどうして大学に入ったんですか?」
家庭教師授業の束の間の休憩タイム。
私は陳腐な質問とは思いつつ、ストレートにそう問うてみた。
「あ?」
鹿内さんは何をいまさらといった顔で、私を横目で見た。
「頭がいいからに決まってるだろ。」
出た。久々の俺様ナルシスト発言。
「鹿内さんが頭いいのはわかっていますって。
そういうことじゃなくて。私、なんで大学行きたいんだろうってふと思ってしまって。」
鹿内さんは白い壁をじっと見つめた後、あごに親指と人差し指を当て、考えるように言った。
「そりゃ、社会に自分を高く売りつける為だろ。この学歴社会、大学名ひとつで登れる階段も違ってくる。どこに居たって所詮この世は戦いの連続だ。だったらより良い装備やパスポートを持った方が俄然有利ってもんだ。違うか?」
「なるほど。そういうものですか。」
やっぱり男の人は考えていることが現実的だ。
要は未来の自分に投資するってことだろうか。
「というのは建前で。俺、中学校の教師になりたいんだ。」
「え?」
ああそうか。鹿内さんってたしか教育学部だったっけ。
「俺、家庭があんなだろ?
中学校の時が一番キツかったんだけど、その時の副担任に色々助けられたんだ。
いくらシカトしても、その副担任の男は俺に辛抱強く寄り添ってくれた。
俺が不良仲間から抜けられたのも、その男のお陰だと思っている。
青臭い理由だけど、その先生みたいになりたい。」
初めて鹿内さんから将来の夢を聞いた。
鹿内さんが中学校の先生か。
意外なような、でもすごくお似合いのような気がした。
またパズルのピースがひとつはまる。
「私、鹿内さんが担任のクラスの中学生になりたかったかも。
そしたら学級委員長になってえこひいきしてもらうの。」
「俺はえこひいきなんてしないぞ?
でも給食を残しても大目にみてやるよ。」
そう言って、まんざらでもないような顔で鹿内さんは笑みを浮かべた。
「大学に入ってからやりたいこと考えても遅くないんじゃない?
その為に大学っていうのはあるんだから。
きっとつぐみもやりたいことが見つかるさ。」
「はい。まずは大学に入れるように頑張ります。」
今出来ることを精いっぱいやるしかない。
それが未来の自分の糧になる。
そう信じて頑張るしかない。
「ということで休憩終わり。じゃ科学の問題集開いて。」
私はノートと問題集を開くと、今度こそ迷いなく鹿内さんの説明に耳を傾けた。
文化祭や体育祭といったお祭り騒ぎが終わり、休み明けのテストの出来が散々だった私は、
本格的に勉強に取り組まなければならない時期に来ていた。
そうしないと希望の大学になんて、とても手が届かない。
私はママに塾に行きたいと訴えた。
しかしその訴えは速攻却下された。
「つぐみは塾には向いていないってこと、自分でもよく判っているでしょ?」
「でも、あれは小学生の時の事だし・・・」
私は中学受験のため、小学校4年の頃から塾に通っていた。
しかし私の成績は、その馬鹿高い授業料に見合うほど右肩あがりに上ることはなかった。
内気な私は塾の先生にも持ち前の人見知りを発動してしまい、わからない問題があっても聞きにいくこともままならず、結局塾に行くことすら放棄してしまったのだ。
小学校6年生になり窮地を迎えた私のために、ママは自らの友人の娘である丸山好子先生に家庭教師を頼んでくれたのであった。
好子先生は優しくて教え方も上手で親しみやすい、私にとってすごく良い先生だった。
私が学校の男子にいじめられているという話をすると、諭すように人差し指と親指でL字型を作ってみせた。
「男の子なんてね、ゴリラだと思えばいいのよ。ゴリラに何言われたって痛くもかゆくもないでしょ?だってバナナ大好きしか能のないゴリラですもの。」
私はその話を聞いてお腹の底から笑ってしまった。
男の子はゴリラ、か。
そうね。ゴリラや猿やオラウータンと一緒。
いやそれらの方がまだ可愛げがあるってものだ。
私は学校の教室で騒ぐ男子たちをそう思うことで、高みの見物をするように自らを守っていた。
ママの話によると好子先生は、すでに結婚して3人の男の子の母親になっているらしい。
好子先生は3匹のゴリラを上手く育てることが出来ているのだろうか。
「やっぱりつぐみは家庭教師の方が向いていると思うわ。」
「でも家庭教師っていっても、いまから好子先生みたいないい先生が見つかるかな?」
「あら、いるじゃない。我が家にうってつけの人が。」
「え?」
「鹿内君ならつぐみも打ち解けているし、なんてったってあの高偏差値の大学に通っているんですもの。それも教育学部だっていうし、きっと教え方も上手だと思うわ。」
「そ、それはちょっと・・・」
「ママはいつでもつぐみの味方よ。」
ママはそう言って、ウインクしてみせた。
まだママの中では、私と鹿内さんは付き合っている設定になっているのだった。
ああ!なんてややこしいことになっちゃったんだろう?
鹿内さん相手じゃ変に意識しちゃって、数学の公式も古典の四段活用も頭に入ってくるはずない!
でもママはそんな私の意思とは無関係に、勝手に鹿内さん相手に私の家庭教師になってくれるよう話を進めてしまった。
鹿内さんはギャラが良かったからなのか、二つ返事で了承したという。
毎週金曜日、17時から19時の2時間が鹿内さんの家庭教師時間となった。
「最初に言っておくけど、俺はスパルタだから。そこんとこ、ヨロシク。」
家庭教師第一日目、鹿内さん、いや鹿内先生の授業は往年のロックミュージシャンみたいなその一言から始まり、私は思わず噴き出した。
「あはっ!世界のYAZAWAですか?」
「うるせーな。ノリで言ってみただけだから、そこ突っ込むな。」
でもその一言で、一気に肩の力が抜けた。
もしかして鹿内さん、私の緊張をほぐすために、似合わない冗談を言ってくれたのかな?
鹿内さんの耳がほんのり赤い。
「とりあえず過去のテストの実績を見せて。」
私はしぶしぶ、新学期始まってすぐのテスト回答用紙を勉強机の引き出しの奥から取り出した。
現代文、古典、数学、生物、政治経済。
一枚ずつ用紙をめくるごとに、鹿内さんの顔つきが険しくなっていった。
そして最後の一枚を穴があくまで眺めたあと、大きくため息をついた。
「おい。つぐみ。大学入る気、本当にあんの?」
「それは・・・もちろんあります!そのために家庭教師してもらっているワケですし・・・」
「じゃあ今日から、マジで勉強に取り組め。
生半可な気持ちで受験戦争を勝ち抜けると思うなよ。」
「・・・わかりました。」
なまじ高校入学がエスカレーター式で楽をして上がれたため、高校に入ってもその生ぬるさが抜け切れず、結果今の成績に至った自分が情けなかった。
「じゃ、今日は古文から始める。この文章、5分で読んで。」
鹿内さんは分厚い参考書から、いにしえの人々が書いた文章のページを開くと机の上に置き、自分は木製の椅子にドカリと座り、腕を組んで目を瞑った。
「かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもひを」
百人一首にも選ばれている藤原実方の歌だ。
現代語訳に直すと「せめてこんなにもあなたを想っているということだけでも言いたいのですが言えません。まして伊吹山のさしも草ではないけれど、私の想いもこんなに激しく燃えているとは、貴女は知らないことでしょう。」とある。
なんてロマンチックな恋歌なのだろう。
私がうっとりしているにも関わらず、鹿内さんの淡々とした説明が私の耳に流れ込んで来る。
「このさしも草っていうのはヨモギのことだ。お灸のもぐさの原料にもなっている草のこと。
その草みたいに自分の心が誰かのために激しく燃えているっていう意味だ。この歌は清少納言に贈ったと言われている。」
「素敵ですよね!千年前の人達も、熱く秘めた恋をしていたってことでしょ?」
「この藤原実方って男は、相当モテていたみたいだな。
でもこの歌が実方の書いた初めてのラブレターらしい。」
「へえ。モテ男ってまるで誰かさんみたいですね?
令和のモテ男さんは、いつ初ラブレターを書いたんですか?」
「は?令和のモテ男って俺のことか?」
「鹿内先生しかいないじゃありませんか!」
私は、顎に手を乗せて、ニヤニヤしながら鹿内さんの顔を見上げた。
「ラブレターなんか書いたことないよ。」
「もらったことはあるけど?」
私は白い封筒に入っていた美也子さんのメッセージを思い出していた。
「ああ。何通貰ったか、数えられない程度には。」
鹿内さんは面倒くさそうに言った。
「つぐみこそ書いたことあるの?」
「ありますよ?小学校のとき、信二兄ちゃんに。いっぱい遊んでねって。」
「はいはい。信二兄ちゃん、ね。・・・でも俺だって熱く秘めた想いくらい知っているよ。」
「愛を知らないのに?」
「愛よりももっと深い想いさ。」
「・・・その相手ってどんなひと?」
「つぐみになんか教えない。」
「ケチ!」
鹿内さんからそんなにも深い想いを寄せられている人が羨ましい。
美也子さんのことだろうか?
それとももうどこか遠くに行ってしまった人?
「そんなことより古文の単語の意味や文法を早く覚えろ。」
「はーい。」
「はーいじゃない。返事ははい、と短く言え。そういうところから気の緩みが出てくるんだぞ。」
「はい!」
「よろしい。」
私は難しい漢字が羅列する文章を必死で頭に叩き込みながらも、心では別の事を考えていた。
もし鹿内さんが家を出て行くことになっても、私の大学受験が終わるまではこうして会うことが出来る。そう考えるとママの強引さには感謝しなくてはならない。
でも私の成績が思うように上がらなければ、鹿内さんに軽蔑されてしまうだろう。
それは何が何でも避けたい。
不純な動機かもしれないけど、これからは真面目に勉強に励もうと思った。
「・・・5分経ったぞ。じゃ、この問題解いてみろ。」
私はシャープペンシルの芯をカチカチと出して、問題集の問いの文を目で追っていった。
鹿内さんの授業は言葉遣いこそ悪いけれど、簡潔かつ丁寧な説明でとても分かり易かった。
私は鹿内さんに褒められたくて、学校の休み時間も、家に帰ってきてからも、机に向かい必死に勉強をし始めた。
その甲斐あってか、小テストの点数も少しづつ上がってきた。
今日の3時限目は体育でバスケットボールの授業だった。
自分のチームの試合が終わり、体育座りで他の子達がボールをゴールに入れる様子をぼんやり眺めていた私の横に、沙耶がよっ!と言いながら座った。
「つぐみ、やるじゃん。ゴール3回も決めていたね。ナイスショット!」
「まぐれよ。まぐれ。」
でもまぐれだろうとなんだろうと、運気があがってきているようで、ちょっと嬉しい。
「そういえばどうしたの?最近、やけに勉強に励んでいるじゃん。」
「ちょっとね。家庭教師の先生がめちゃくちゃ怖い人でさ。
私が少しでも変な答えを出すと、ヤの付く自由業の人みたいに睨むんだから。」
「え?つぐみ、家庭教師なんて付けているんだ。もしかして男?」
「そうだけど。」
「若いの?」
「まあ・・・大学3年生かな。」
「へえ。男嫌いのつぐみが、よく受け入れたね。」
「・・・というか、鹿内さん。」
「マジか?!・・・ということはよ。限られた数時間を密室で鹿内さんと二人きりで過ごしているってことでしょ?
つぐみ大丈夫?もしかしてもう奪われちゃった?」
「奪われちゃったってなにをよ。」
「決まっているでしょ。バージン!」
沙耶の言葉に私は耳まで真っ赤になった。
「そんなわけないでしょ!
私はいたって真面目に勉学に取り組んでいるんだから変なこと言わないでよね!」
「ムキにならないでよ。ほんの冗談じゃん。」
冗談でもそんなこと言わないでよね。
次の家庭教師の授業のとき、変に意識しちゃうじゃない。
実は私だってちょっぴり期待していた。
少女漫画みたいな、ドラマチックでロマンチックな展開があるかもしれない、なんてことを。
ふとした瞬間に手と手が触れあってしまうとか、顔と顔が触れ合うくらい接近してしまってお互いドキドキするとか、そんなシチュエーションがあるかもしれない、なんてことを。
でも現実はそんなに甘いものではなかった。
鹿内さんにとって私の家庭教師をやるということは、その体力的消耗の割には、短時間に高収入が手に入る美味しいバイトでしかない。
そこに色恋などというふんわりとした夢物語が入り込む隙間などありはしない。
あるのは勉強という手段と、努力という過程と、テストの点数という結果、そして大学受験への切符となる偏差値を手に入れるという目的、これしかないのだった。
「せっかく髪型可愛くして、変身したと思ったら、今度は大学受験のための猛勉強か。ホント、最近のつぐみは何か変わったよね。」
そう言って沙耶は私の全身を舐めまわすように眺めた
「そういう沙耶は、大学受験しないの?」
「しなーい。私はネイリストになりたいの。だからその専門学校に行くつもり。」
「そんな話、初めて聞いた。」
「聞かれなかったから、言わなかっただけ。これでも将来の事いろいろ考えているんだから。」
しっかりとした夢を持っている沙耶が、なんだか急に大人びてみえた。
考えてみれば、私はなんで大学に行きたいのだろう。
特にやりたい勉強もなければ、なりたい仕事もない。
学歴社会だから?一応入っておけば安心だから?
私は将来のためにどこへ向かって進んでいけばよいのだろう?
「鹿内さんはどうして大学に入ったんですか?」
家庭教師授業の束の間の休憩タイム。
私は陳腐な質問とは思いつつ、ストレートにそう問うてみた。
「あ?」
鹿内さんは何をいまさらといった顔で、私を横目で見た。
「頭がいいからに決まってるだろ。」
出た。久々の俺様ナルシスト発言。
「鹿内さんが頭いいのはわかっていますって。
そういうことじゃなくて。私、なんで大学行きたいんだろうってふと思ってしまって。」
鹿内さんは白い壁をじっと見つめた後、あごに親指と人差し指を当て、考えるように言った。
「そりゃ、社会に自分を高く売りつける為だろ。この学歴社会、大学名ひとつで登れる階段も違ってくる。どこに居たって所詮この世は戦いの連続だ。だったらより良い装備やパスポートを持った方が俄然有利ってもんだ。違うか?」
「なるほど。そういうものですか。」
やっぱり男の人は考えていることが現実的だ。
要は未来の自分に投資するってことだろうか。
「というのは建前で。俺、中学校の教師になりたいんだ。」
「え?」
ああそうか。鹿内さんってたしか教育学部だったっけ。
「俺、家庭があんなだろ?
中学校の時が一番キツかったんだけど、その時の副担任に色々助けられたんだ。
いくらシカトしても、その副担任の男は俺に辛抱強く寄り添ってくれた。
俺が不良仲間から抜けられたのも、その男のお陰だと思っている。
青臭い理由だけど、その先生みたいになりたい。」
初めて鹿内さんから将来の夢を聞いた。
鹿内さんが中学校の先生か。
意外なような、でもすごくお似合いのような気がした。
またパズルのピースがひとつはまる。
「私、鹿内さんが担任のクラスの中学生になりたかったかも。
そしたら学級委員長になってえこひいきしてもらうの。」
「俺はえこひいきなんてしないぞ?
でも給食を残しても大目にみてやるよ。」
そう言って、まんざらでもないような顔で鹿内さんは笑みを浮かべた。
「大学に入ってからやりたいこと考えても遅くないんじゃない?
その為に大学っていうのはあるんだから。
きっとつぐみもやりたいことが見つかるさ。」
「はい。まずは大学に入れるように頑張ります。」
今出来ることを精いっぱいやるしかない。
それが未来の自分の糧になる。
そう信じて頑張るしかない。
「ということで休憩終わり。じゃ科学の問題集開いて。」
私はノートと問題集を開くと、今度こそ迷いなく鹿内さんの説明に耳を傾けた。