愛を知るまでは★イチゴキャンディ編★
子犬物語
秋も深まった11月の夕方、私はモモを連れて散歩に出かけた。
いつもの公園のベンチで休んでいると、真奈美さんと小太郎がやって来た。
「こんばんは」
「こんばんは。つぐみちゃんと会うのは久しぶりね。」
「そうですね。私、最近勉強が忙しくて・・・」
「そう。学生さんは大変ね。」
真奈美さんはそう言って、私の隣に座った。
小太郎はいつものごとく、モモにすり寄っている。
「真奈美さんは大学へは・・・?」
「私は大学には行っていないの。美術の専門学校に入ったから。」
そういえば真奈美さんはイラストレーターの卵だって前に言っていた。
「イラストレーターなんですよね?
どんな絵を描くんですか?」
「えっとね。ちょっと恥ずかしいけど」
真奈美さんは小さな黄色のポーチからスマホを取り出して、自分の描いたイラストが写っている写真を見せてくれた。
それは繊細な線で描かれた可愛らしい動物や花などのイラストだった。
「色々な出版社に持ちこんでいるんだけど、なかなか良い返事がもらえなくて、たまに自分には才能がないんじゃないかって落ち込むわ。」
「そんなことないです。私は真奈美さんのイラスト、好きです。
こんなイラストが付いている雑貨があったら、すぐ買っちゃうと思います。」
「ありがとう。つぐみちゃん。」
真奈美さんはスマホの写真ホルダーを閉じながら、その艶々とした唇を上げて笑顔になった。
真奈美さんも由宇さんも、そして鹿内さんも夢に向かって突き進んでいる。
でも私には、まだそんな夢はなにもない。
そう考えると、私という存在がとてもちっぽけに思えて、なんだか焦ってしまう。
でも今はまず大学に受かること、それが夢への第一歩だと思って勉強を頑張るしかない。
「あの・・・つぐみちゃん・・・えっと」
「はい。」
「・・・あのね・・・」
真奈美さんは心なしか、いつもの溌剌さがなく、少しモジモジしているように感じられた。
しかし一転、私の目を見ると、勢いよく声を発した。
「あの・・・鹿内さんとつぐみちゃんって・・・そういう関係なの?」
「え?・・ち、違います・・・」
真奈美さんは私が彼女役をしてるときのことを言っているらしい。でも私はもう彼女役を降りたのだ。
「そう!由宇からもつぐみちゃんは彼氏いないって聞いてたけど、前にそんな感じだったから。」
「あれは・・・鹿内さんのおふざけです。」
「そう。なら良かった!」
真奈美さんはそう言って安堵の表情を浮かべ、照れたように視線を地面へと落とした。
「鹿内さんて映画はお好きかしら?」
「さあ。どうでしょうか。嫌いじゃないと思いますけど・・・」
「実は、子犬物語、のチケットがあるんだけど、
鹿内さんをお誘いしちゃおうかしら、なんて思っているのよね。
ねえ、つぐみちゃん、どう思う?」
「えーと・・・」
私は答えに困った。
こういう時、どう答えるのが正解なんだろう。
鹿内さんは真奈美さんのこと「ナチュナル女」と一刀両断していたけれど。
「そういうことは直接本人に聞いてみた方がいいと思いますけど。」
「そうよね。それが出来たら一番いいんだけど。
最近、朝の散歩で鹿内さん、お見掛けしないから。」
それは多分、真奈美さんと会わないように時間を避けているんだと思う。
鹿内さんて自分に好意を寄せる女性を、遠ざける習性があるみたいだから。
「鹿内さんは止めておいた方がいいと思いますよ。彼女がいるみたいだし。」
私はやんわりと真奈美さんに釘を刺した。
「でも私、何もしないで諦めるなんて嫌なの。
何もしないで後悔するより、自分で納得して諦めたいの。」
たしかにそれは一理ある。
玉砕覚悟で向かっていくという方法もある。
私にはとても真似できないけれど。
彼女がいる相手にも臆せず、積極的な行動を移せる真奈美さんがポジティブで羨ましい。
私は心と裏腹に、真奈美さんに微笑んで見せた。
「私から鹿内さんにそれとなく聞いてみましょうか?」
「ホント!つぐみちゃん、ありがとう!」
真奈美さんは私の両手を握りしめ、上下に振りながら喜びを隠しきれない表情をした。
ああ、美也子さんの時といい、どうして私はこんな役回りになってしまうのだろう。
私は気が重い任務を安請け合いしてしまった自分がつくづく嫌になった。
しかし一旦約束してしまったことを反古にする訳にはいかない。
私は家庭教師の勉強が終わったあと、鹿内さんに切り出してみた。
「あの・・・実は真奈美さんから鹿内さん宛に言付けを頼まれまして」
「真奈美?ああ、小太郎の飼い主か。」
鹿内さんは右手で持ったシャーペンの芯をしまいながら、そうつぶやいた。
「一緒に映画行きませんか?というお誘いなんですけど。」
「映画?」
「今、絶賛放映中の子犬物語っていう映画らしいです。」
「ふーん。子犬物語か。」
鹿内さんは意外と素直に、話に食いついてきた。
「いかにも犬の飼い主が好みそうな映画だな。」
「そうですね。」
「別に行ってもいいけど。」
鹿内さんは真奈美さんの誘いに乗り気な様子だ。
え?美也子さんという相手がいるのに?
私は内心裏切られたような気がした。
女嫌いとか言っておきながら、結局綺麗な女性の誘いにはホイホイ乗るんだ。
「じゃあ、真奈美さんにはOKということで話してもいいんですね?」
「ああ。でも平日はバイトだから、祝日にしてくれ。つぐみもその方がいいだろ?」
「え?私?」
鹿内さんはどうやら私も一緒に行くものだと勘違いしているらしい。
「いやいや。何を寝ぼけたこと言っているんですか!
真奈美さんは鹿内さんと二人で行きたいんですよ。」
「は?」
「いわゆるデートってやつです。」
全く、鈍いにも程がある。
「デート?」
鹿内さんはそう言うと、なにやら考え込んでしまった。
「そんなに深く考えなくても、軽い気持ちで行けばいいんじゃないですか?」
「・・・それはちょっとな。」
たしかに美也子さんと付き合っているのに、他の女性とデートするのは気が引けるのだろう。
「じゃあ断りますね。」
でもなんて言って断ればいいんだろう。
そんな私の心を覗いたかのように、鹿内さんが言った。
「でも断るのも角が立つんだろ?
あの女とつぐみは公園でよく鉢合わせするんだもんな」
「うーん・・・」
確かに断ったらちょっと気まずいかもしれない。
「だから、つぐみもついておいで。」
「えっ・・・」
思いがけない言葉に、思わず心が跳ね上がる。
「つぐみだって子犬物語、観たいんだろ?」
「それは、観たいか観たくないかって言ったら、観たいですけど。」
「よく知らない女と二人きりで映画になんて行きたくない。
つぐみが行かないなら、俺も行かない。」
・・・そっか。
私も行けばデートにはならないもんね。
ちょっと期待してしまった自分が恥ずかしい。
それとも少しくらいは鹿内さんには私が必要なんだ・・・って自惚れてもいいのだろうか?
「私はいいですけど、真奈美さんがなんていうか。」
そんな野暮なことをするのは気が引けるけれど、私はその日の夜、教えて貰った真奈美さんのラインにメッセージを送った。
(鹿内さんに聞いてみたところ、祝日ならOKだそうです。ただ・・・私もご一緒することになりそうなんですけど、大丈夫ですか?)
するとしばらくして真奈美さんから返信のメッセージが届いた。
(大丈夫よ!じゃあ私も由宇を誘ってみるわ。)
真奈美さんが嫌な反応ではなくてホッとした。
ただ鹿内さんと由宇さん、水と油みたいな二人が鉢合わせして上手くいくだろうか?
私はそのことがちょっと心配だった。
秋も深まり、風が冷たく感じる様になった11月も末の日曜日。
道路際の銀杏もまっ黄色に染まり、風に吹かれて盛大にその葉を落としている。
渋谷の街は、もうクリスマスの飾りつけを始めていて、小さなサンタクロースが店に飾られていたり、クリスマスリースが所々にぶら下がっていた。
私と鹿内さん、そして高坂姉弟の4人は渋谷の映画館で現地集合した。
今日の真奈美さんは白いニットのワンピースが街の雰囲気に合っていて、
さりげなく付けたパールのイヤリングが大人っぽさを演出していた。
由宇さんも白いロングTシャツにジーパン、
そしてビンテージの革ジャンというシンプルだけれどもお洒落男子特有の
格好良さが滲み出ている。
鹿内さんはチェックのシャツに黒いブルゾン、Gパンというラフなスタイル。
しかし背が高くてスタイルが良いせいか、特にお洒落しなくても十分恰好良い。
私だけ、グレーのパーカーにジーンズのスカートというガキっぽい服を着ていて、
この三人と一緒にいるのがなんだか恥ずかしかった。
6階まである映画館の4階で子犬物語は上映されていた。
私達はエスカレーターで4階まで上がり、チケットを買うと座席に座った。
「俺、飲み物買ってくるけど。」
鹿内さんが高坂姉弟に聞いた。
「あ、僕も行きますよ。」
由宇さんも勢いよく立ち上がった。
「じゃあ私、コーヒーをお願いします。」
真奈美さんが申し訳なさそうに言う。
私はオレンジジュースを頼んだ。
鹿内さんと由宇さんは目くばせすると、二人で売店に向かっていった。
席順はスクリーンに向かって左から由宇さん、私、鹿内さん、真奈美さんで並ぶことになった。
「由宇は昨日から喜んでいたのよ。つぐみちゃんと会えるからって。」
真奈美さんが小声で囁いた。
「私も由宇さんと会えるの楽しみにしていました。」
と一応社交辞令を言っておく。
しばらくすると鹿内さんと由宇さんが両手に飲み物を持って戻ってきた。
鹿内さんにいたっては、片手に大きなビニール袋をぶらさげている。
鹿内さんは自分の席にドカッと座ると、私と鹿内さんの席の間に、ビニール袋から取り出したキャラメルポップコーン大盛りを置いた。
「高坂さんも食いますか?」
鹿内さんが右隣の真奈美さんに尋ねるも、真奈美さんは片手を振って断った。
劇場内が次第に暗くなり、幕が上がった。
最初の10分くらいは次回作や商品のコマーシャルが続く。
煙草が吸えなくて口さみしいのか、ほどなくして鹿内さんはポップコーンを食べだした。
コマーシャルが終わり、本編が始まった。
子犬のマリモは、ご主人様である可愛い少女ハルのことが大好きな、ミニチュアダックスフンド。
マリモはハルの後をいつでもどこでもちょこちょこと付いて行く。
けれどハルはまだ治療方法が見つかっていない難病に罹ってしまう。
涙ぐましい努力で病と闘うハルの慰めは、いつも寄り添ってくれるマリモの存在だった。
ハルが元気になって、また一緒に外へ散歩に行きたいと願うマリモの想いもむなしく、ハルは幼い命の炎を吹き消されてしまう。
マリモはもう一度ハルと一緒に過ごしたいとずっと願いながら、ハルより長い寿命を終わらせる。
ハルは一足先に今度はケンという少年に生まれ変わっていた。
ケンは白いマルチーズを飼っていて、そのマルチーズから小さな子犬達が産まれる。
その子犬の中の一匹はマリモの命で、ケンは生まれ変わったマリモを見て何故だか涙があふれて止まらなかった・・・という感動的な作品だった。
私はモモとの出会いを思い出して、ハンカチで何度も目をこすった。
私とモモも前世で出会っていたのかな・・・なんて考えながら。
でも私はところどころ集中できなくて困ってしまった。
何故なら私がポップコーンを掴んだ時、たまに同時にポップコーンをつまむ鹿内さんの手の甲が当たってしまうからだ。
かすかに触れ合った指先が熱くなって、私一人がドキドキしているのが憎らしい。
そんな私の心の内も知らず、鹿内さんは相変わらず本編上映中も、もぐもぐとポップコーンを食べ続けていた。
鹿内さんの大食いは今日も健在だ。
しかしふと気づくと、鹿内さんのポップコーンをまさぐる手が止まっていた。
そっと右隣を盗み見ると、鹿内さんは真剣な面持ちでスクリーンを見つめていた。
映画はまさにハルとマリモの再会の瞬間。
鹿内さんの頬に一筋の涙の線が流れていた。
・・・きっとマルコのことを思い出しているんだ。
「うっうっ・・・ぐふっ」
何やら左隣からも嗚咽が聞こえてくる。
見ると、由宇さんも映画を観ながら号泣していた。
映画が終わり、館内が明るくなった。
鹿内さんは一瞬で頬に張り付いていた水滴を拭った。
そして何事もなかったかのように、席を立った。
さっきまで子犬の映画でウルウルしていたくせに。
私は鹿内さんの背中を見ながら、案外涙もろいところもあるんだな、とニンマリしてしまった。
映画館を出ると、私達はお茶をするため、近くのカフェに入った。
それぞれ注文を頼み、自然と話は先ほど観た子犬物語の感想になった。
「いや~僕、こんなに感動するとは思いませんでした。特にハルとマリモの別れのシーンは結構やばかったっすね!」
由宇さんがそう口火を切ると、鹿内さんも珍しくにこやかに頷いた。
「子供向けかと舐めていたけど、なかなかの感動作だったな。」
「あ、それは僕も思いました!あれは並みの犬では出来ない演技ですよ。」
「ああ。あの子犬にはアカデミー特別賞を与えてやりたいよ。」
たしか私も以前、アカデミー新人賞を鹿内さんから授与しましたけど。
由宇さんと鹿内さんはふたりで子犬物語の感想や出演者達の演技論について熱く語っている。
その空間に私や真奈美さんの出る幕はなかった。
真奈美さんは自らのパールのイヤリングを触りながら、男達ふたりを醒めた目で眺めていた。
「ホント、男って単純。あんなの全部、作り話なのよ。動物に演技なんか出来るわけがないじゃない。あれはね、何匹もの子犬を使い分けているの!」
「え?そうなんですか?!」
私は真奈美さんの予想外な感想に、思わず目を丸くした。
「大体、映画鑑賞中にずっとポップコーンを食べるのはマナー違反じゃない?」
それは鹿内さんのことを言っているのだろうか?でも音はたててなかったけれど・・・。
「そりゃ、私だって別れのシーンはグッときたわよ。
だけど先に泣かれてしまうとね。こっちは涙なんかスッと引っ込んでしまうわ。」
真奈美さんの口から、次々と毒舌が吐き出される。
「まあ、そうですけど・・・」
当たり障りのない返事をしながら、私は頼んだミルクレープを口に入れた。
楽しそうに由宇さんと話に興じている鹿内さんの横顔をそっと盗み見る。
映画を観て目を潤ませたり、熱く語っちゃったりする鹿内さんの新たな一面が見られて、今日ここへきて良かったと思った。
またパズルのピースがひとつはまった気分。
でもこうやって過ごせるのもそんなに長くない筈だ。
一緒にいられるその一瞬を大切に、鹿内さんの全てを心に刻み付けたい。
鹿内さんと由宇さんは、カフェでのお茶を飲み終わると、突然居酒屋に行くと言い出した。
どうやら鹿内さんと由宇さんは、子犬物語を通じて、意気投合したみたいだ。
のけ者にされた私と真奈美さんは、家路に向かうことにした。
帰りの電車の中でも、真奈美さんはあきらかにテンションが下がっていた。
「今日は、鹿内さんが私の事なんて一ミリも眼中にないのが良く判ったわ。」
「そんなこと・・・」
ないですよ・・・とは言い切れなかった。
鹿内さんは複数の女性と付き合えるほど器用な性格ではない、と思う。
そして美也子さん、もしくは秘めた熱い想いのお相手が心の中にいるのなら、真奈美さんに勝ち目はない。
「・・・・・・。」
すると、真奈美さんは私にも醒めた目を向けた。
「つぐみちゃん、鹿内さんに頼まれたんでしょ?一緒に映画に行こうって。」
「そ、そんなことないです!私が観たいって言ったんです。付いてきちゃってすみません。」
「そんなバレバレな嘘をつくことないわ。」
「そんな・・・」
「妹を連れてこないと、女性と一緒に映画を観に行けないほどのシスコンなのかしら、
鹿内さんって。ちょっとびっくり。」
「そんなことないですよ?」
「それに鹿内さんってもっとクールな人だと思っていたわ。
なんだか残念なイケメンね。」
その言葉に私は心の中でムッとした。
鹿内さんのことを勝手に美化していたのは、真奈美さんの方ではないか。
もしかしたら鹿内さんはこれまでも、こんな理不尽な扱いを何度も受けてきたのではないのだろうか?
「いや、つぐみちゃんのことを責めているわけじゃないのよ。ごめんなさいね。」
そう言うと真奈美さんは唇だけで微笑んでみせた。
そして私と真奈美さんはロクに会話もせず、きまずい雰囲気の中別れたのだった。
鹿内さんが家に帰って来たのは、夜の9時過ぎだった。
3時に解散したから、移動時間を考慮しても5時間くらい由宇さんと飲んでいたことになる。
帰るなりキッチンで水を一杯飲むと、ベランダに出ていつものように煙草を吸い始めた。
私はすでにお風呂に入りパジャマ姿だったけれど、由宇さんと鹿内さんが何を話したのか気になって、そっとベランダへ出た。
鹿内さんはいつもよりぼんやりとした様子で煙草を咥えている。
「あの・・・鹿内さん?」
珍しくお酒に酔っているのだろうか、少し目が眠そうにとろんとしている。
私が声を掛けると、ビクッとして煙草の灰を落とした。
「なんだ・・・いたのか。」
「えっと・・・今日はお疲れ様でした。」
「おう。お疲れ。」
鹿内さんは左腕を大きく上げてみせた。
そんなおどけた様子からみると、相当飲んで来たに違いない。
「帰って来るの、随分遅かったですね。そんなに由宇さんと盛り上がったんですか?」
「ああ。まあな。」
鹿内さんは煙を吐き出すと、私の方を向いた。
「由宇さんとどんな話したんです?子犬物語の感想だけで5時間も掛かったんですか?」
「教えない。男同士の話だから。」
そう言うと鹿内さんは私に煙草の煙を吹きかけた。
「もう。いつも私には何も教えてくれないんだから。」
私は口を尖らせた。
鹿内さんはベランダの外の景色を見ながら、独り言のように話し出した。
「由宇のヤツ、すぐに酔っぱらいやがってさ。アイツの身の上話を延々聞かされたよ。
見た感じその辺のチャラ男かと思っていたけど、アイツ、案外あれで苦労しているらしい。」
「へえ。そうなんですか」
「今通っているダンススクールの金も自分でなんとか工面しているらしいしな。」
「由宇さん、私と一緒の時は、そんなこと一言も話してくれなかったのに。」
私には楽しい話ばかりして、会話を盛り上げてくれていた。
男同士でお酒が入ると、深い本音の話をするのだろうか。
鹿内さんは私のおでこを、人差し指でチョンと押した。
「アイツ、つぐみに気があるらしいぜ。」
「え?」
私は突然、話が方向転換されたことで、お風呂上りだというのに、背中に嫌な汗が流れた。
「由宇とデートしたんだろ?小洒落たレストランで食事を分け合って、その後公園でくつろいだって、由宇のヤツ、嬉しそうに話していたよ。どう?楽しかった?」
「あれは由宇さんから街を案内して欲しいと頼まれたから。でも楽しかったですよ?」
私がそう言うと、鹿内さんは庭の方に視線を向け、ぶっきらぼうに言った。
「由宇のやつが言っていた。今は友達だけど、絶対振り向かせて見せるって。
だからせいぜい頑張れよって言っておいた。」
「は?なんですか?それ。」
一瞬で体中の血液が凍えた。
「ほら。またそうやって逃げる。」
「逃げてません・・・私はちゃんと自分の男嫌いと向き合っています。」
「じゃあなおさらいい機会なんじゃない?
由宇はいい男だぜ。つぐみとお似合いだと思うし、付き合ってみれば?」
「・・・え?」
「そうすればつぐみがいう「愛」ってヤツを知ることが出来るかもよ?」
鹿内さんは淡々と、軽くそう言い放った。
鹿内さんが吸う煙草の煙がゆらゆらと、どこへともなく夜の帳に吸い込まれていくのが私の瞳に映りこんだ。
何で突然、そんな突き放したようなことを言うの?
それならどうして今日みたいに映画に誘ったりして、期待を持たせるようなことをするの?
結局鹿内さんは、私が他の男の人と付き合おうがなにしようが、どうでもいいのだ。
どう頑張ったって妹以上にはなれない。
そんなこと、とっくにわかりきっていたことなのに、胸がどうしようもなく痛くてたまらない。
気づくと私の瞳から、涙があとからあとから零れて、止まらなくなっていた。
嗚咽する私に気づいた鹿内さんの瞳と、涙があふれて止まらない私の瞳が絡み合った。
鹿内さんの驚愕の表情が涙でぼやけていく。
「・・・つぐみ?」
「・・・大丈夫です。目にゴミが入っただけです。」
「ごめん・・・つぐみ、泣かないでくれ。」
鹿内さんが私の肩を掴もうとするのを、私は思いきり振り払った。
「触らないでください。」
自分でも驚くほど冷たく固い声だった。
「もう私のことなんか、ほっといて下さい。」
私はかろうじてそう言って涙を拭うと、静かにドアを開け、ベランダから出て行った。
二階に駆け上がり、自室に入るとベッドにダイブして枕に顔をうずめる。
そして声を殺しながら泣いた。
鹿内さんの言葉の一文一句を思い出しながら。
たしかに由宇さんはいい人だし、話しやすくて、素敵な人だ。
けれどそれは友達としてだ。
どうせなら由宇さんを好きになれればよかった。
鹿内さんなんて好きにならなければ良かった。
どうして鹿内さんと出会ってしまったのだろう?
いっそ出会わなければよかった。
でも私は出会ってしまったのだ。
女嫌いで身勝手で、寂しがり屋で、でも本当は底抜けに優しい鹿内弘毅という人に。
いや、身勝手なのは私の方だ。
美也子さんとのことを後押ししたくせに、自分だけを見て欲しいなんて願いを持て余している。
私の行き止まりの恋は壁にぶつかり、反射してどこへ着地するのだろう。
いつもの公園のベンチで休んでいると、真奈美さんと小太郎がやって来た。
「こんばんは」
「こんばんは。つぐみちゃんと会うのは久しぶりね。」
「そうですね。私、最近勉強が忙しくて・・・」
「そう。学生さんは大変ね。」
真奈美さんはそう言って、私の隣に座った。
小太郎はいつものごとく、モモにすり寄っている。
「真奈美さんは大学へは・・・?」
「私は大学には行っていないの。美術の専門学校に入ったから。」
そういえば真奈美さんはイラストレーターの卵だって前に言っていた。
「イラストレーターなんですよね?
どんな絵を描くんですか?」
「えっとね。ちょっと恥ずかしいけど」
真奈美さんは小さな黄色のポーチからスマホを取り出して、自分の描いたイラストが写っている写真を見せてくれた。
それは繊細な線で描かれた可愛らしい動物や花などのイラストだった。
「色々な出版社に持ちこんでいるんだけど、なかなか良い返事がもらえなくて、たまに自分には才能がないんじゃないかって落ち込むわ。」
「そんなことないです。私は真奈美さんのイラスト、好きです。
こんなイラストが付いている雑貨があったら、すぐ買っちゃうと思います。」
「ありがとう。つぐみちゃん。」
真奈美さんはスマホの写真ホルダーを閉じながら、その艶々とした唇を上げて笑顔になった。
真奈美さんも由宇さんも、そして鹿内さんも夢に向かって突き進んでいる。
でも私には、まだそんな夢はなにもない。
そう考えると、私という存在がとてもちっぽけに思えて、なんだか焦ってしまう。
でも今はまず大学に受かること、それが夢への第一歩だと思って勉強を頑張るしかない。
「あの・・・つぐみちゃん・・・えっと」
「はい。」
「・・・あのね・・・」
真奈美さんは心なしか、いつもの溌剌さがなく、少しモジモジしているように感じられた。
しかし一転、私の目を見ると、勢いよく声を発した。
「あの・・・鹿内さんとつぐみちゃんって・・・そういう関係なの?」
「え?・・ち、違います・・・」
真奈美さんは私が彼女役をしてるときのことを言っているらしい。でも私はもう彼女役を降りたのだ。
「そう!由宇からもつぐみちゃんは彼氏いないって聞いてたけど、前にそんな感じだったから。」
「あれは・・・鹿内さんのおふざけです。」
「そう。なら良かった!」
真奈美さんはそう言って安堵の表情を浮かべ、照れたように視線を地面へと落とした。
「鹿内さんて映画はお好きかしら?」
「さあ。どうでしょうか。嫌いじゃないと思いますけど・・・」
「実は、子犬物語、のチケットがあるんだけど、
鹿内さんをお誘いしちゃおうかしら、なんて思っているのよね。
ねえ、つぐみちゃん、どう思う?」
「えーと・・・」
私は答えに困った。
こういう時、どう答えるのが正解なんだろう。
鹿内さんは真奈美さんのこと「ナチュナル女」と一刀両断していたけれど。
「そういうことは直接本人に聞いてみた方がいいと思いますけど。」
「そうよね。それが出来たら一番いいんだけど。
最近、朝の散歩で鹿内さん、お見掛けしないから。」
それは多分、真奈美さんと会わないように時間を避けているんだと思う。
鹿内さんて自分に好意を寄せる女性を、遠ざける習性があるみたいだから。
「鹿内さんは止めておいた方がいいと思いますよ。彼女がいるみたいだし。」
私はやんわりと真奈美さんに釘を刺した。
「でも私、何もしないで諦めるなんて嫌なの。
何もしないで後悔するより、自分で納得して諦めたいの。」
たしかにそれは一理ある。
玉砕覚悟で向かっていくという方法もある。
私にはとても真似できないけれど。
彼女がいる相手にも臆せず、積極的な行動を移せる真奈美さんがポジティブで羨ましい。
私は心と裏腹に、真奈美さんに微笑んで見せた。
「私から鹿内さんにそれとなく聞いてみましょうか?」
「ホント!つぐみちゃん、ありがとう!」
真奈美さんは私の両手を握りしめ、上下に振りながら喜びを隠しきれない表情をした。
ああ、美也子さんの時といい、どうして私はこんな役回りになってしまうのだろう。
私は気が重い任務を安請け合いしてしまった自分がつくづく嫌になった。
しかし一旦約束してしまったことを反古にする訳にはいかない。
私は家庭教師の勉強が終わったあと、鹿内さんに切り出してみた。
「あの・・・実は真奈美さんから鹿内さん宛に言付けを頼まれまして」
「真奈美?ああ、小太郎の飼い主か。」
鹿内さんは右手で持ったシャーペンの芯をしまいながら、そうつぶやいた。
「一緒に映画行きませんか?というお誘いなんですけど。」
「映画?」
「今、絶賛放映中の子犬物語っていう映画らしいです。」
「ふーん。子犬物語か。」
鹿内さんは意外と素直に、話に食いついてきた。
「いかにも犬の飼い主が好みそうな映画だな。」
「そうですね。」
「別に行ってもいいけど。」
鹿内さんは真奈美さんの誘いに乗り気な様子だ。
え?美也子さんという相手がいるのに?
私は内心裏切られたような気がした。
女嫌いとか言っておきながら、結局綺麗な女性の誘いにはホイホイ乗るんだ。
「じゃあ、真奈美さんにはOKということで話してもいいんですね?」
「ああ。でも平日はバイトだから、祝日にしてくれ。つぐみもその方がいいだろ?」
「え?私?」
鹿内さんはどうやら私も一緒に行くものだと勘違いしているらしい。
「いやいや。何を寝ぼけたこと言っているんですか!
真奈美さんは鹿内さんと二人で行きたいんですよ。」
「は?」
「いわゆるデートってやつです。」
全く、鈍いにも程がある。
「デート?」
鹿内さんはそう言うと、なにやら考え込んでしまった。
「そんなに深く考えなくても、軽い気持ちで行けばいいんじゃないですか?」
「・・・それはちょっとな。」
たしかに美也子さんと付き合っているのに、他の女性とデートするのは気が引けるのだろう。
「じゃあ断りますね。」
でもなんて言って断ればいいんだろう。
そんな私の心を覗いたかのように、鹿内さんが言った。
「でも断るのも角が立つんだろ?
あの女とつぐみは公園でよく鉢合わせするんだもんな」
「うーん・・・」
確かに断ったらちょっと気まずいかもしれない。
「だから、つぐみもついておいで。」
「えっ・・・」
思いがけない言葉に、思わず心が跳ね上がる。
「つぐみだって子犬物語、観たいんだろ?」
「それは、観たいか観たくないかって言ったら、観たいですけど。」
「よく知らない女と二人きりで映画になんて行きたくない。
つぐみが行かないなら、俺も行かない。」
・・・そっか。
私も行けばデートにはならないもんね。
ちょっと期待してしまった自分が恥ずかしい。
それとも少しくらいは鹿内さんには私が必要なんだ・・・って自惚れてもいいのだろうか?
「私はいいですけど、真奈美さんがなんていうか。」
そんな野暮なことをするのは気が引けるけれど、私はその日の夜、教えて貰った真奈美さんのラインにメッセージを送った。
(鹿内さんに聞いてみたところ、祝日ならOKだそうです。ただ・・・私もご一緒することになりそうなんですけど、大丈夫ですか?)
するとしばらくして真奈美さんから返信のメッセージが届いた。
(大丈夫よ!じゃあ私も由宇を誘ってみるわ。)
真奈美さんが嫌な反応ではなくてホッとした。
ただ鹿内さんと由宇さん、水と油みたいな二人が鉢合わせして上手くいくだろうか?
私はそのことがちょっと心配だった。
秋も深まり、風が冷たく感じる様になった11月も末の日曜日。
道路際の銀杏もまっ黄色に染まり、風に吹かれて盛大にその葉を落としている。
渋谷の街は、もうクリスマスの飾りつけを始めていて、小さなサンタクロースが店に飾られていたり、クリスマスリースが所々にぶら下がっていた。
私と鹿内さん、そして高坂姉弟の4人は渋谷の映画館で現地集合した。
今日の真奈美さんは白いニットのワンピースが街の雰囲気に合っていて、
さりげなく付けたパールのイヤリングが大人っぽさを演出していた。
由宇さんも白いロングTシャツにジーパン、
そしてビンテージの革ジャンというシンプルだけれどもお洒落男子特有の
格好良さが滲み出ている。
鹿内さんはチェックのシャツに黒いブルゾン、Gパンというラフなスタイル。
しかし背が高くてスタイルが良いせいか、特にお洒落しなくても十分恰好良い。
私だけ、グレーのパーカーにジーンズのスカートというガキっぽい服を着ていて、
この三人と一緒にいるのがなんだか恥ずかしかった。
6階まである映画館の4階で子犬物語は上映されていた。
私達はエスカレーターで4階まで上がり、チケットを買うと座席に座った。
「俺、飲み物買ってくるけど。」
鹿内さんが高坂姉弟に聞いた。
「あ、僕も行きますよ。」
由宇さんも勢いよく立ち上がった。
「じゃあ私、コーヒーをお願いします。」
真奈美さんが申し訳なさそうに言う。
私はオレンジジュースを頼んだ。
鹿内さんと由宇さんは目くばせすると、二人で売店に向かっていった。
席順はスクリーンに向かって左から由宇さん、私、鹿内さん、真奈美さんで並ぶことになった。
「由宇は昨日から喜んでいたのよ。つぐみちゃんと会えるからって。」
真奈美さんが小声で囁いた。
「私も由宇さんと会えるの楽しみにしていました。」
と一応社交辞令を言っておく。
しばらくすると鹿内さんと由宇さんが両手に飲み物を持って戻ってきた。
鹿内さんにいたっては、片手に大きなビニール袋をぶらさげている。
鹿内さんは自分の席にドカッと座ると、私と鹿内さんの席の間に、ビニール袋から取り出したキャラメルポップコーン大盛りを置いた。
「高坂さんも食いますか?」
鹿内さんが右隣の真奈美さんに尋ねるも、真奈美さんは片手を振って断った。
劇場内が次第に暗くなり、幕が上がった。
最初の10分くらいは次回作や商品のコマーシャルが続く。
煙草が吸えなくて口さみしいのか、ほどなくして鹿内さんはポップコーンを食べだした。
コマーシャルが終わり、本編が始まった。
子犬のマリモは、ご主人様である可愛い少女ハルのことが大好きな、ミニチュアダックスフンド。
マリモはハルの後をいつでもどこでもちょこちょこと付いて行く。
けれどハルはまだ治療方法が見つかっていない難病に罹ってしまう。
涙ぐましい努力で病と闘うハルの慰めは、いつも寄り添ってくれるマリモの存在だった。
ハルが元気になって、また一緒に外へ散歩に行きたいと願うマリモの想いもむなしく、ハルは幼い命の炎を吹き消されてしまう。
マリモはもう一度ハルと一緒に過ごしたいとずっと願いながら、ハルより長い寿命を終わらせる。
ハルは一足先に今度はケンという少年に生まれ変わっていた。
ケンは白いマルチーズを飼っていて、そのマルチーズから小さな子犬達が産まれる。
その子犬の中の一匹はマリモの命で、ケンは生まれ変わったマリモを見て何故だか涙があふれて止まらなかった・・・という感動的な作品だった。
私はモモとの出会いを思い出して、ハンカチで何度も目をこすった。
私とモモも前世で出会っていたのかな・・・なんて考えながら。
でも私はところどころ集中できなくて困ってしまった。
何故なら私がポップコーンを掴んだ時、たまに同時にポップコーンをつまむ鹿内さんの手の甲が当たってしまうからだ。
かすかに触れ合った指先が熱くなって、私一人がドキドキしているのが憎らしい。
そんな私の心の内も知らず、鹿内さんは相変わらず本編上映中も、もぐもぐとポップコーンを食べ続けていた。
鹿内さんの大食いは今日も健在だ。
しかしふと気づくと、鹿内さんのポップコーンをまさぐる手が止まっていた。
そっと右隣を盗み見ると、鹿内さんは真剣な面持ちでスクリーンを見つめていた。
映画はまさにハルとマリモの再会の瞬間。
鹿内さんの頬に一筋の涙の線が流れていた。
・・・きっとマルコのことを思い出しているんだ。
「うっうっ・・・ぐふっ」
何やら左隣からも嗚咽が聞こえてくる。
見ると、由宇さんも映画を観ながら号泣していた。
映画が終わり、館内が明るくなった。
鹿内さんは一瞬で頬に張り付いていた水滴を拭った。
そして何事もなかったかのように、席を立った。
さっきまで子犬の映画でウルウルしていたくせに。
私は鹿内さんの背中を見ながら、案外涙もろいところもあるんだな、とニンマリしてしまった。
映画館を出ると、私達はお茶をするため、近くのカフェに入った。
それぞれ注文を頼み、自然と話は先ほど観た子犬物語の感想になった。
「いや~僕、こんなに感動するとは思いませんでした。特にハルとマリモの別れのシーンは結構やばかったっすね!」
由宇さんがそう口火を切ると、鹿内さんも珍しくにこやかに頷いた。
「子供向けかと舐めていたけど、なかなかの感動作だったな。」
「あ、それは僕も思いました!あれは並みの犬では出来ない演技ですよ。」
「ああ。あの子犬にはアカデミー特別賞を与えてやりたいよ。」
たしか私も以前、アカデミー新人賞を鹿内さんから授与しましたけど。
由宇さんと鹿内さんはふたりで子犬物語の感想や出演者達の演技論について熱く語っている。
その空間に私や真奈美さんの出る幕はなかった。
真奈美さんは自らのパールのイヤリングを触りながら、男達ふたりを醒めた目で眺めていた。
「ホント、男って単純。あんなの全部、作り話なのよ。動物に演技なんか出来るわけがないじゃない。あれはね、何匹もの子犬を使い分けているの!」
「え?そうなんですか?!」
私は真奈美さんの予想外な感想に、思わず目を丸くした。
「大体、映画鑑賞中にずっとポップコーンを食べるのはマナー違反じゃない?」
それは鹿内さんのことを言っているのだろうか?でも音はたててなかったけれど・・・。
「そりゃ、私だって別れのシーンはグッときたわよ。
だけど先に泣かれてしまうとね。こっちは涙なんかスッと引っ込んでしまうわ。」
真奈美さんの口から、次々と毒舌が吐き出される。
「まあ、そうですけど・・・」
当たり障りのない返事をしながら、私は頼んだミルクレープを口に入れた。
楽しそうに由宇さんと話に興じている鹿内さんの横顔をそっと盗み見る。
映画を観て目を潤ませたり、熱く語っちゃったりする鹿内さんの新たな一面が見られて、今日ここへきて良かったと思った。
またパズルのピースがひとつはまった気分。
でもこうやって過ごせるのもそんなに長くない筈だ。
一緒にいられるその一瞬を大切に、鹿内さんの全てを心に刻み付けたい。
鹿内さんと由宇さんは、カフェでのお茶を飲み終わると、突然居酒屋に行くと言い出した。
どうやら鹿内さんと由宇さんは、子犬物語を通じて、意気投合したみたいだ。
のけ者にされた私と真奈美さんは、家路に向かうことにした。
帰りの電車の中でも、真奈美さんはあきらかにテンションが下がっていた。
「今日は、鹿内さんが私の事なんて一ミリも眼中にないのが良く判ったわ。」
「そんなこと・・・」
ないですよ・・・とは言い切れなかった。
鹿内さんは複数の女性と付き合えるほど器用な性格ではない、と思う。
そして美也子さん、もしくは秘めた熱い想いのお相手が心の中にいるのなら、真奈美さんに勝ち目はない。
「・・・・・・。」
すると、真奈美さんは私にも醒めた目を向けた。
「つぐみちゃん、鹿内さんに頼まれたんでしょ?一緒に映画に行こうって。」
「そ、そんなことないです!私が観たいって言ったんです。付いてきちゃってすみません。」
「そんなバレバレな嘘をつくことないわ。」
「そんな・・・」
「妹を連れてこないと、女性と一緒に映画を観に行けないほどのシスコンなのかしら、
鹿内さんって。ちょっとびっくり。」
「そんなことないですよ?」
「それに鹿内さんってもっとクールな人だと思っていたわ。
なんだか残念なイケメンね。」
その言葉に私は心の中でムッとした。
鹿内さんのことを勝手に美化していたのは、真奈美さんの方ではないか。
もしかしたら鹿内さんはこれまでも、こんな理不尽な扱いを何度も受けてきたのではないのだろうか?
「いや、つぐみちゃんのことを責めているわけじゃないのよ。ごめんなさいね。」
そう言うと真奈美さんは唇だけで微笑んでみせた。
そして私と真奈美さんはロクに会話もせず、きまずい雰囲気の中別れたのだった。
鹿内さんが家に帰って来たのは、夜の9時過ぎだった。
3時に解散したから、移動時間を考慮しても5時間くらい由宇さんと飲んでいたことになる。
帰るなりキッチンで水を一杯飲むと、ベランダに出ていつものように煙草を吸い始めた。
私はすでにお風呂に入りパジャマ姿だったけれど、由宇さんと鹿内さんが何を話したのか気になって、そっとベランダへ出た。
鹿内さんはいつもよりぼんやりとした様子で煙草を咥えている。
「あの・・・鹿内さん?」
珍しくお酒に酔っているのだろうか、少し目が眠そうにとろんとしている。
私が声を掛けると、ビクッとして煙草の灰を落とした。
「なんだ・・・いたのか。」
「えっと・・・今日はお疲れ様でした。」
「おう。お疲れ。」
鹿内さんは左腕を大きく上げてみせた。
そんなおどけた様子からみると、相当飲んで来たに違いない。
「帰って来るの、随分遅かったですね。そんなに由宇さんと盛り上がったんですか?」
「ああ。まあな。」
鹿内さんは煙を吐き出すと、私の方を向いた。
「由宇さんとどんな話したんです?子犬物語の感想だけで5時間も掛かったんですか?」
「教えない。男同士の話だから。」
そう言うと鹿内さんは私に煙草の煙を吹きかけた。
「もう。いつも私には何も教えてくれないんだから。」
私は口を尖らせた。
鹿内さんはベランダの外の景色を見ながら、独り言のように話し出した。
「由宇のヤツ、すぐに酔っぱらいやがってさ。アイツの身の上話を延々聞かされたよ。
見た感じその辺のチャラ男かと思っていたけど、アイツ、案外あれで苦労しているらしい。」
「へえ。そうなんですか」
「今通っているダンススクールの金も自分でなんとか工面しているらしいしな。」
「由宇さん、私と一緒の時は、そんなこと一言も話してくれなかったのに。」
私には楽しい話ばかりして、会話を盛り上げてくれていた。
男同士でお酒が入ると、深い本音の話をするのだろうか。
鹿内さんは私のおでこを、人差し指でチョンと押した。
「アイツ、つぐみに気があるらしいぜ。」
「え?」
私は突然、話が方向転換されたことで、お風呂上りだというのに、背中に嫌な汗が流れた。
「由宇とデートしたんだろ?小洒落たレストランで食事を分け合って、その後公園でくつろいだって、由宇のヤツ、嬉しそうに話していたよ。どう?楽しかった?」
「あれは由宇さんから街を案内して欲しいと頼まれたから。でも楽しかったですよ?」
私がそう言うと、鹿内さんは庭の方に視線を向け、ぶっきらぼうに言った。
「由宇のやつが言っていた。今は友達だけど、絶対振り向かせて見せるって。
だからせいぜい頑張れよって言っておいた。」
「は?なんですか?それ。」
一瞬で体中の血液が凍えた。
「ほら。またそうやって逃げる。」
「逃げてません・・・私はちゃんと自分の男嫌いと向き合っています。」
「じゃあなおさらいい機会なんじゃない?
由宇はいい男だぜ。つぐみとお似合いだと思うし、付き合ってみれば?」
「・・・え?」
「そうすればつぐみがいう「愛」ってヤツを知ることが出来るかもよ?」
鹿内さんは淡々と、軽くそう言い放った。
鹿内さんが吸う煙草の煙がゆらゆらと、どこへともなく夜の帳に吸い込まれていくのが私の瞳に映りこんだ。
何で突然、そんな突き放したようなことを言うの?
それならどうして今日みたいに映画に誘ったりして、期待を持たせるようなことをするの?
結局鹿内さんは、私が他の男の人と付き合おうがなにしようが、どうでもいいのだ。
どう頑張ったって妹以上にはなれない。
そんなこと、とっくにわかりきっていたことなのに、胸がどうしようもなく痛くてたまらない。
気づくと私の瞳から、涙があとからあとから零れて、止まらなくなっていた。
嗚咽する私に気づいた鹿内さんの瞳と、涙があふれて止まらない私の瞳が絡み合った。
鹿内さんの驚愕の表情が涙でぼやけていく。
「・・・つぐみ?」
「・・・大丈夫です。目にゴミが入っただけです。」
「ごめん・・・つぐみ、泣かないでくれ。」
鹿内さんが私の肩を掴もうとするのを、私は思いきり振り払った。
「触らないでください。」
自分でも驚くほど冷たく固い声だった。
「もう私のことなんか、ほっといて下さい。」
私はかろうじてそう言って涙を拭うと、静かにドアを開け、ベランダから出て行った。
二階に駆け上がり、自室に入るとベッドにダイブして枕に顔をうずめる。
そして声を殺しながら泣いた。
鹿内さんの言葉の一文一句を思い出しながら。
たしかに由宇さんはいい人だし、話しやすくて、素敵な人だ。
けれどそれは友達としてだ。
どうせなら由宇さんを好きになれればよかった。
鹿内さんなんて好きにならなければ良かった。
どうして鹿内さんと出会ってしまったのだろう?
いっそ出会わなければよかった。
でも私は出会ってしまったのだ。
女嫌いで身勝手で、寂しがり屋で、でも本当は底抜けに優しい鹿内弘毅という人に。
いや、身勝手なのは私の方だ。
美也子さんとのことを後押ししたくせに、自分だけを見て欲しいなんて願いを持て余している。
私の行き止まりの恋は壁にぶつかり、反射してどこへ着地するのだろう。