不倫の女
 パイプ椅子からずり落ちて、しりもちをついた。無様に呼吸を喘ぐ。
 
 誰も見ていない中、このまま死んでしまいたい。
 私も彼の元へ行きたい。

「どうされましたか?」
 遠くの方から女性の声が聞こえた。
 私は答えようとするが、呼吸が困難で返答することができない。
 
 足音が近づいてくる。
 呼吸をすることに精一杯で振り返ることすらできない。
 声と足音だけで、近づいてきている人物が誰なのかはわかってしまった。
 
 奥様だ。

「大丈夫ですか。落ち着いて呼吸をゆっくりしましょう」
 
 彼女は私の背中をさする。
 触られていることで更に苦しくなりそうだ。

「ゆっくり。吸って。そう。吐いて」
 やさしく呼吸の方法を教えてもらう。
 
 なんなんだ私は——。
 呼吸の方法を教えてもらうって。
 あまりのバカバカしさに涙がこみ上げてくる。

「大丈夫。ゆっくり。ほら、良くなってきているわ」

 確かに良くなってきた。
 背中をさする手に暖かみを感じる。
 
 あなたの旦那様を奪おうとした私なんかにやさしくしないでほしい。
 
 奥様に触られていることで心は穏やかではなかった。
 だが、不思議と呼吸は落ち着いてきた。

「——あ、ありが、とうござい、ます」
 息を吐きながら、ようやく答えることができた。

「よかった。落ち着いて」
 笑い声で奥様は言う。

「本当にありがとうございました」
 そこで振り返り、顔を見て告げる。

 奥様は顔こそ笑顔だったものの、目は笑っていなかった。
 
 刺すような視線。
 バレている。
 何もかも。 
 全部。
 
 女の直感がこの場から逃げることを促している。
 
 それなのに――
 
 動けない。
 
 足が竦む。
 恐怖で。
 
「あら、あなた主人の——」
「部下の大沢です」
「よかったら、少しお話できないかしら」
「え――?」

 頭が真っ白になる。
 全てバレている奥様から告げられる話が、いい話なわけがない。

「――二人きりで話しましょう」
 
 地獄だ。
 これは私の犯した罪による罰だ。
 バレなければいいと考えていた私の――私達の受ける罰だ。
 
 私は彼の遺影を見ながら応える。

「わかりました」

 遺影の中の彼は笑っている。

 そのことがなぜかおかしくなって笑いそうになる。
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