*結ばれない手* ―夏―
「ちょっと驚かせ過ぎちゃったかしら……いらっしゃい、ロビーでお茶でもしましょ」

 杏奈はモモの元へ戻り、茫然と立ち尽くす少女の左手を握り締めた。

 見開いた(まなこ)は『桜』の文字から離れられない。

 それでもやがて何とか酸素を吸い込み、引かれた手の方へ歩を進めた。

「大丈夫? オレンジジュースで良いかしら? あ、ちょっと」

 杏奈は正面口左手のラウンジへモモを座らせ、通りすがりのウェイターに声をかけた。

 まもなく絶句したままのモモの前にフレッシュなオレンジジュースが運ばれたが、しばらくそれに手を伸ばす余裕はなかった。

「さすがに目の前の筋肉バカが、こんな所のお坊ちゃまだったと聞かされたら驚くわよねぇ……」

 杏奈はモモの驚きようを少々楽しんでいるようだった。

 カフェでそうしていたように今度は自分の膝の上に両肘を突き、モモの顔を覗き込んでいる。

 ──先輩が桜財閥の御曹司……おんぞうし……? オンゾウシって何だっけ……?

 テーブルに置かれたオレンジ色をぼんやりと見つめる。

 モモの思考は完全に停止していた──。


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