恋、煩う。
プロローグ
始まりは、強い雨が窓を叩く鬱々とした夜。
どんよりとした空気が最後の一押しとなるように、塵のように積もり積もった陰鬱な圧迫感が、涙へと形を変える日だった。
ただそれは、初めてのことでは無かった。日毎注がれる怒りや悲しみややるせなさを、我慢して、我慢して、限界が来たら暗い社内で声を押し殺して泣く。そうして一度心をまっさらに戻して、また暗晦な日常へと何事もなかった顔で戻るのが常だったから。
ただ、違ったのは。
「谷田部さん……?」
──誤算だったのは、まだ社内に人が残っていたことだった。
廊下も室内も電気を点けずにいたのに突然開かれた扉。現れたのは器量好しの自慢の部下で、暗い中でも輝きの失せない暗褐色が驚いたようにこちらを見ていた。
「松崎くん、まだ社内に居たのね。あんまり残業しすぎちゃ駄目だよ?」
自分のことは棚に上げ、冗談っぽくそう笑いながら入口に立つ彼から目を逸らす。
暗いからきっと濡れた頬には気付かれていない。だけど近づいたらさすがに分かってしまうだろうから、すぐに拭わなくては。
そう思うのに、一度穴の開いた感情の管を修復するのは至難の業で、指先で払った先から涙が溢れてきて困った。
「別のところで作業してて、そろそろ帰ろうと思ったんですけど、谷田部さんの鞄があったから……」
ああ、なるほど。それで上司思いの優しい彼は気にして探しにきてくれたのか。
こんな真っ暗な会議室で何をしてるんだろうって怪訝がられてるだろうなあ。そう思いながら「そっか、ごめんね」と謝る。どうか明かりを灯されませんようにと祈りながら、努めて明るい口調で話し続けた。
「私も丁度戻るところだったの。だから先帰ってて大丈夫よ。他の部署の人ももう居なかった? それなら、戸締りも私が見回るから、松崎くんは──」
「谷田部さん」
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