恋、煩う。
休みが被るなんてことあるだろうか。
あまり考えたくない偶然と、頭の奥で鳴り響く警鐘に自然と声を掛けた私に、手入れされていない頭がゆっくりとこちらを向いた。
久しぶりに絡んだ生気の薄い真っ黒な目玉に、ひゅうっと息を吸う。
立ち尽くす私を見つけた彼は、「あー……」と言葉にもならない音を喉の奥から押し出した。
そして、かさついた唇がくっといびつに歪む。
「お前、聞いてないの」
こちらを嘲笑うような声だった。
蜘蛛の巣に絡め取られたように足が動かない私を余所に、泰明はゆったりとした動作で立ち上がる。
裸の足がぺたりぺたりとフローリングを踏みしめ、こちらへ近づいてくる。そしてその爪先は、私の目の前までやってくるのかと思いきや、手前でその方向を変えた。
固まる私を差し置いて、キッチンへと足を向けた泰明は黒い冷蔵庫に手を伸ばし、そして、開ける刹那ちらりとこちらへ視線を寄越した。
「俺、会社辞めたから」
「…………は」
そうして放り投げられた言葉の、なんという衝撃か。
あまりにも唐突なその告白に間の抜けた声が滑り落ちた。
平静を取り繕えるわけもなく、目に見えて狼狽した表情を浮かべる私を無感動な瞳は暫く眺めていたけれど、やがて興味を失ったように冷たい箱へと視線が戻った。
不揃いの爪先が、ビール缶の淵を引っ掛け引っ張り出す。
お目当てのものを手に入れて、そのまままたソファーに戻ろうとする男を、見逃せるわけが無かった。
「ちょっと待ってよ」
思わず、前を過ぎようとする彼の裾を掴んでしまう。
自分から触れるのは酷く久しぶりで、心臓が嫌な音を立てた。僅かに怪訝な顔はされたものの、振り払われはしなかったことに密かに安堵する。
ずっと掴み止めている必要は無いだろう。ゆっくりと手を離しながら、色のない瞳を真っすぐ見上げた。