恋、煩う。

「辞めたって、本当に言ってるの」
「そうだよ。もう二週間前から有休消化に入ってる」

どうして平然としていられるのか。そんな回答が欲しいわけじゃ無いこと、分かっているはずなのに。

「どうして勝手に……!」

思わず荒げかけた声は、沼のように真っ黒な眼に竦み萎んでしまった。
微かに眉根を寄せ、鬱陶しげに私を見遣った泰明は、「いいだろ別に」と吐き捨てる。

「お前の稼ぎで十分だろ」
「何言って……」
「主夫っての? 俺それになるわ。お前の方が稼いでるし、丁度いいだろ」

まるで自暴自棄になったかのような嘲りを浮かべ、投げやりな態度で馬鹿なことを宣う泰明。
本当に、どうしていきなりそんなことを……。
途方に暮れながら、私は泰明に一歩歩み寄った。

「ねえ、急にどうしたの? 仕事で何かあったの……?」

泰明が支店に異動となった時にはもう、この関係は冷え切っていた。
当然、お互いに仕事の悩みなんかを打ち明けることも無く、だけど会社で変な噂とかを聞いたわけでもなかったから、辞めたいほど思い悩んでいたなんて全く知らなかった。
頭ごなしに怒るのは違う気がして、恐る恐る訊ねた私に、しかし感情を失ったようだった彼の双眸は、強い憎悪の光を走らせた。

ゴトン、と鈍い音が耳を劈く。
視界の端に缶が転がり、まだプルタブが引かれていないことに安堵すると同時、息が詰まった。

「……ッ、」

胸倉を掴まれ、閉じていたドアに押し付けられる。
強かに後頭部を打ち付けて、痛みに悶えていると酷く濁った、しかし苛烈な怒りを灯す瞳が眼前に迫っていた。

「お前には分からないだろうな。何の苦も無く出世したお前には」

低く、獣が唸るような声だった。

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