恋、煩う。
3
暦の上では夏が終わり、しかしまだまだ暑さが猛威をふるう八月の終わり。
泰明の退職も正式に発令されたが、夫婦の片割れが転職なんてのはよくあること。
特に誰につつかれることもなく、でも、どこかもの言いたげな視線を松崎くんが時折送ってくるようになっているのは分かっていた。
だけどやっぱり優しいから、深くは踏み込んでこない。
そして私はいつものように、それにつけこんで、甘えている。
「……俺、一旦買い出しに出ます。皆さん何か欲しいものありますか?」
お盆が明け、段々と忙しさが波のように寄せ始めた今日この頃。
私の部署では運の悪いことに別プロジェクトの納期が被ってしまい、突発的な繁忙期に陥っていた。
さすがに会社に泊まり込むような真似はしないものの、多くが夜の十時近くまで残っていて、今日も皆、疲労の残る目でディスプレイを睨みつけている。
そんな緊迫した空気を溶かすように立ち上がったのは松崎くんで、彼の言葉にあちこちから好き勝手な食べ物の名前が飛ぶ。
現在時刻は七時半。予め遅くなることが分かっている日は、こうして誰かが軽食を買いに出てくれるのだ。
「課長はどうしますか?」
「あー……じゃあ、お任せで」
特に食べたいものが思いつかず、ついそうお願いすると嬉しそうに栗色の瞳が細まった。
「はい。任せてください」
そして恭しくお辞儀をした松崎くんはちゃんとエコバッグを持参し、夜の街に抜け出していく。
その軽やかな背を見送っていると、一度緩んだ空気が中々戻らないのか、他のメンツも次々と席を立ち始めた。
そしてフロアに残ったのは米山さんと私だけで、休憩に行かなくていいの? と目線で問うと、彼女は静かに笑って頷いた。
そして、暫くはお互いがキーボードを叩く音が響いていたけれど、少ししたところで鈴の音を転がしたような音が聞こえて来た。
「課長って、」
「……ん、私?」
話しかけられたのだと気づくのに一瞬間があいてしまう。