恋、煩う。
松崎くんは本当によくできた子で、人との距離を測り損ねない。
だから、私が少しだけ彼との逢瀬を抑えていることにも気づいているだろうけれど、それに対して何かを言ってきたことは無かった。
ただ、私が抵抗感を抱かないくらいの丁度良いタイミングで私を誘い、先に家で待っていてくれる。
だから、正直に言えば驚いたのだ。
「お疲れ様です。沙織さん」
一時間以上前に帰ったはずの思い人が、会社を出たところで待ち受けているだなんてちっとも予想していなかったから。
どのくらい驚いたかというと、手に持っていたペットボトルを落とすくらいで、ころころとあらぬ方向へ転がっていってしまいそうだったそれを、彼は笑いながら拾った。
「驚きすぎ」
「だ、だって、随分前に帰ったと思ってたから」
戸惑う私の鞄にペットボトルをしまい込みながら、ふ、と彼が口元を柔らかく緩める。
相変わらず澄んできらきらと光る綺麗な瞳を、そういえばこんな風に見つめるのも久しぶりかもしれない。そう思うと途端恥ずかしいような気まずいような、とにかく見つめ返すことが出来なくなって、アスファルトへ視線を落とした。
「ど、どうしたの?」
なんて白々しい。自分でもそう思う。
きっと松崎くんも同じだったのだろう。刹那の間動きを止めた彼は、一歩私に近づいた。
視界に彼のしなやかな手指が踊り、あっと思う間に頤を掴まれる。そして、逸らした視線を咎めるように顔を上げさせられた。
「沙織さんに会いたくて待ってたんです。それだけじゃ理由になりませんか?」
嬉しかった。
それは彼不足の渇いた心に沁みわたるようで、胸が震える。
嬉しくて、幸せなのに、素直に喜ぶことが出来ない雁字搦めの関係が、同じくらい憎かった。
す、と顎を引いて彼の指先から逃げる。こちらの真意を窺うような二つの目から逃げるように視線を惑わせた。
「とにかく、ここからは離れよっか」
「……そうですね」
何かを言いかけて、だけど途中で飲み込んだような、そんな間だった。