恋、煩う。
「こ、こら……!」
社内に人は居なかったとはいえ、まだ会社の近所だ。もしかしたら仕事終わりにこの辺りをふらついてる人も居るかもしれない。
小さく𠮟りつけながら振りほどくように手を揺らした。だけど、いつもなら聞き分けの良い彼は頑なに私の手を離そうとしなかった。
「沙織さん」
足元に擦り寄る猫のような声を出されると、もう駄目だった。
躍起になって動かしていた手を止め、そろそろと顔を上げる。すると、甘え上手な仔猫の瞳がじっとこちらを待っていて、私はがっくりと項垂れた。
「……わかった、から」
だから離して。降参の声を上げれば、呆気なく体温は離れていく。
躊躇いなく引いていく温度に思わず顔を上げると満足そうに笑む顔とかち合って、思わず苦笑が零れてしまった。
(半分は演技って、分かってるんだけどなあ)
でもどうしたって敵わないのだ。
この甘え上手で、優しくて、そしてこちらを甘やかすのもとびきり上手な年下の男の子には。
全てを灰色に染め上げるようなあの雨の日を境に、彼との関係はいびつに歪んでしまった。
それが赦されることでは無いことも、前途有望な彼に影を落としてしまうことも分かっていた。抱き合うたびに、ぬるい体温が溶けあう度に、罪の形をした背徳感に押しつぶされそうになったけれど、それ以上に幸せで。
与えられる熱が。こちらを愛しいと叫ぶ眼差しが。臆面もなく広げられた腕が。その全てが優しくて、逞しくて、だから縋ってしまった。甘えていいよと諭す声を馬鹿みたいに受け入れて。
本当に狡くて、卑しい、酷い女だ。