アオハルリセット
それから伊原くんと付き合い始めて一週間が経った。あまり広まることもなく、捨て垢のこと以外、私は平和に過ごしていた。
「頼むって〜! 全員分のジュース賭けてるから負けられないんだよー」
教室に男子の声が響き、窓側へ視線を移す。そこには顔の前で両手を合わせている男子と、なにかをお願いされている伊原くんがいた。
「だから、無理だってー」
「先にゴール決めた方が勝ちっていう簡単なルールだから! すぐ終わるから! 頼むって、伊原〜!」
「とにかく今日の放課後は予定あんの」
どうやら放課後に一部の男子たちでサッカーをするらしく、人数が足りないみたいだ。
何度も頼まれている伊原くんは辟易とした様子でため息を吐く。視線が合ったので、私はこっそりと指で丸を作った。
今日は私と帰る約束をしているから断ってくれているのだろう。けれど、あんなに必死に頼んでいる姿を見てしまうと、断るのは可哀想になってきてしまう。
「はぁ……わかった」
伊原くんが了承すると男子数人がガッツポーツをとって喜び出す。そんな彼らの間を通り過ぎて、伊原くんが私の元までやってきた。
「ごめん、先帰る?」
「ゴール決めれば終わるって言ってたし、それなら待ってるよ」
「ありがと」
ほっとした表情で伊原くんが柔らかな笑みを浮かべる。そんなにあからさまに嬉しそうにされると、照れくさくなる。
伊原くんに気を遣わせないように先に帰った方がいいのかと一瞬考えたけれど、待っていると言ってよかった。
放課後、昇降口から校庭に繋がっている石段のところで伊原くんを待つことにした。
ここの場所から、サッカーをしている姿もよく見えるはずだ。
「全員揃った? 早く始めようよ」
聞き慣れた声がして振り向くと、昇降口からジャージ姿の千世が歩いてくる。
ほんの数秒、千世と目が合った。けれど、どちらからともなく逸らして、会話もない。話したいはずなのに、話すのが怖い。
千世は私の横を通過して、校庭へと向かっていく。
男子たちの中に混ざっている女子は千世ひとりだけなので、伊原くんのように人数が足りず、運動神経のいい千世が駆り出されたのかもしれない。
中学の頃、千世が体育でサッカーをしているのを見たことがあったけれど、小学生のときにクラブチームに入っていたらしく、すごく上手だった。
ボールが足に吸い付くように自由自在に動いていて、敵をかわしながら何度もゴールを決めていた姿が今も目に焼きついている。
ひとりの男子の号令によって、試合が開始する。
伊原くんのことを応援したいのに、視線が千世のことも追ってしまう。
千世の身のこなしの軽さは目を見張るものがあって、男子たちも唖然としている。
あと少しでゴールというところで、ひとりの男子が千世からボールを奪う。
そしてゴールから遠ざけようとしたのか、思いっきりボールを蹴った。ボールは、空高く舞い上がる。
——すごい、あんなに高く蹴ることってできるんだ。
石段に座りながら、ぼんやりとそんなことを思う。
太陽の眩しさに目を眇めると、誰かの叫ぶような声が響いた。
「——し……さん!」
そしてその直後に、額に衝撃が走った。
身体が後ろに勢いよく揺れる。両肘で自分を支えたものの、力が抜けていく。
そのまま石段の上に、斜めの体制でずるりと転がった。
……なにが、起こったの?
呆然としながら、鈍い痛みを感じる額を押さえる。
タン、タンとボールが耳元で弾む音がして、そこで初めて察した。
「——っ、菜奈! 菜奈、大丈夫!?」
倒れ込んだままの私の視界には、青空と息を切らしながら泣きそうな顔をしている千世が見える。
「ち……せ?」
なんで千世がこんなに必死なのか、なかなか理解が追いつかない。だって、さっきボールを蹴ったのは千世じゃないのに。
「思いっきり当たったよね? どこが痛む? 気分が悪いとかある?」
「ううん……額に当たったけど、そこまでじゃないよ」
多分タンコブくらいはできるだろうけれど、本当にそこまで痛くはない。
「私、本当鈍くてダメだね。中学の頃も、ボール頭にぶつかったことあったのに、またやっちゃった」
へらりと笑うと、千世は私の隣に座り込んで顔をくしゃりと歪める。目には涙を浮かんでいた。
「ごめ……っ、ごめんね」
ぽろぽろと涙が流れているのに、拭わずに泣き続ける千世は中学の卒業式の日に号泣していた姿とまったく変わらなくて、気が緩んでいく。
「なんで千世が泣くの?」
高校に入ってから変わった部分もあるけれど、変わらない部分もある。こうして真っ先に駆けつけてきてくれた千世が理由もなく、拒絶するようには思えない。
「だって……菜奈にもっと嫌われるかもって……っ」
「え? 嫌われる?」
「あ、いや……その」
鼻をぐずつかせながら、千世は気まずそうに俯いてしまう。
私が千世に嫌われたのだと思っていたのに、千世は〝菜奈にもっと嫌われる〟と言っていた。これは一体、どういうこと?
「清水さん、大丈夫?」
私と千世が話していたためか、遠慮がちに伊原くんが様子を見にきてくれた。
倒れ込んだままだった私の手を伊原くんが掴むと、上半身をゆっくりと起き上がらせてくれる。
「どこが痛む? 気分が悪いとかある?」
「ふ……っ」
心配してくれている伊原くんには悪いけれど、思わず噴き出してしまう。
「え、なんで笑ってんの!?」
「だって、伊原くんが千世と同じこと言うから。そこまで痛くないから大丈夫だよ」
額に触れると熱はもっているけれど、吐き気などは特にない。
「ごめん、待たせるべきじゃなかった」
「私が待つって言ったから、伊原くんは気にしないで?」
そんなやりとりを聞いていた千世は、私と伊原くんを交互に見て、ぽかんとした顔をする。
「ちょ、ちょっと待った! え、なに……ふたりってそういう感じ?」
「実は、先週から……」
「ええっ! まじ! 前に一緒に帰ってるの見たとき、もしかしてって思ってたんだけど、そうだったんだ!」
興奮気味に千世は自分の太腿を何度も叩きながら、頬を紅潮させる。
「わ〜! 菜奈に彼氏! しかも伊原〜! おめでとう!」
千世の言葉からは嘘が見えず、本当に祝福してくれているみたいだ。
私は千世に嫌われていたわけではない……?
それならどうして千世に避けられていたのだろう。
「清水さん、ほんっとごめん!」
私にサッカーボールを当てた男子が保健室から氷のうを借りてきてくれて、私に頭を下げてきた。
どうやら私の額に直撃したため、サッカーは中止になってしまったらしく、ぞろぞろと男子たちが私の元へやってきて次々と謝罪を口にする。
「わ、私は大丈夫だから……気にしないで」
その勢いに気圧されながらも、差し出された氷のうを受け取った。
私の肩を千世がぽんぽんと軽く叩く。
「念のため、少しのあいだ向こうで冷やそっか」
ほとんど話したことのない人ばかりで緊張しているのを察してくれたみたいだ。
千世に促されて水道の横の方へ行く。