アオハルリセット
家に帰ると、お母さんは買い物に出かけているのか玄関に靴がなかった。けれどリビングの方から物音がして身構える。お父さんもまだ帰ってきていないはず。
……もしかして、詩?
部屋から一歩も出てこないということはありえないため、家族がいない間に出てきているのはわかっている。
誰とも会いたくないだろうし、詩が部屋に戻るまで身を隠すべき? でも詩にとってはそういう気遣いも嫌かもしれない。
どうしようと、靴を履いたまま立ち止まっていると、リビングから人が出てきた。
髪の毛をひとつに束ねて、Tシャツと短パン姿の詩が、アイスをくわえながら振り返る。
なんて声をかけようかと迷っていると、詩は「おかえり」と普通に話しかけてきた。
「っ、ただいま!」
詩の声を聞くのは久しぶりだった。食い気味に返事をすると、詩は目を大きく見開いて私の顔の方へ手を伸ばしてくる。
「そのおでこどうしたの? ポコってなってない!?」
「うっ、ボールがぶつかって……そんなにわかりやすく腫れてる?」
詩の指先が額に触れると少しだけ痛む。
「たんこぶになってるよ。菜奈ちゃんってば、相変わらず危なっかしいなぁ」
おかしそうに笑われて、詩のことをじとりと睨みつける。
「それ私のアイス」
「あ、バレた?」
肩を竦めて戯けている詩は、あまりにも以前のままで拍子抜けしてしまう。緊張の糸が切れて、脱力してその場に座り込む。
「え、菜奈ちゃんごめん! 実はみんながいない間に、時々お菓子とか勝手に食べちゃってて……もしかして怒った?」
「……そうじゃないよ」
詩がいる。私を拒絶するでもなく、笑みを見せてくれた。嬉しさと安堵で、声が震えてしまう。
「詩、辛い思いしてたのに気づけなくてごめん」
ゆっくりと歩み寄ってきた詩が私の肩に手を伸ばす。
「……私が言わなかったんだから、気づかなくて当たり前だよ。私こそ八つ当たりしてごめんね」
詩の目には薄らと涙の膜が張っている。元気に振る舞っているだけで、辛い感情は消えていないはずだ。
「少しだけ話できる?」
もしも躊躇うようだったら、すぐに引き下がろう。そう思っていたけれど、詩は僅かに表情を硬くしながらも頷いてくれた。
私は部屋着に着替えた後、リビングへ行くとアイスを食べ終わった詩がソファに座って待ってくれていた。
隣に座り、「話せることだけでいいよ」と言うと詩は最初の言葉を探すようにして、指を組んだり、離したりを繰り返す。
「……この間、お母さんとは話をしたんだ」
「そうだったの?」
「うん。昼間にご飯食べながら話すことができて、ちょっと気持ちが落ち着いた」
詩の中で、まだ気持ちの整理がついていないように見える。だからこそお母さんも家族にはまだ黙っていたのかもしれない。
「菜奈ちゃんの光感覚症のことも聞いたよ」
お母さんは詩の様子を見てから伝えると言っていたけれど、話をしても大丈夫だと判断したようだった。
「ごめんね。私自分のことしか見えてなくて。菜奈ちゃんだって色々悩んでたはずなのに……」
「お互い様だよ。私も自分のことしか見えてなかったから」
偶然色んなタイミングが重なって、光感覚症が発症したのだと思う。だから誰が悪いとか、誰に追い詰められたなんて思っていない。溜め込みすぎたことが原因だ。
「学校のこと、私にはまだ話しにくかったら無理しなくていいよ?」
「……今聞いてほしい」
私の服の袖を詩が掴んでくる。まるで行かないでと引き止める幼い子のようで、安心させるように私は自分の手を重ねた。
「わかった。聞かせてくれる?」
「去年の夏なんだけど……」
詩はぽつぽつと学校で起こったことを話し始める。
「部内で仲が拗れちゃった子たちがいたんだ。そのふたり、最初はすごく仲良くてなにをするにも一緒だったんだけど……恋愛絡みで揉めたみたいで」
そうして片方には数人の味方がつき、もう片方は浮いた存在になってしまったそうだ。
「私も含めて何人かが仲裁に入っていたんだけど、だんだんエスカレートしていってイジメみたいになったの」
廊下ですれ違っただけで「消えろ」「ブス」と暴言を吐かれたり、わざとぶつかることもあったらしい。
「〝こういうのやめようよ〟って言う勇気が出なかった。だって否定も肯定もしなければ、穏便に過ごせるかもって思ってた。……最低だよね」
詩は短く息を吐いて、当時のことを思い出すようにきつく目を閉じた。
「嫌がってるのに無理やり動画を撮って、SNSにふざけて投稿したり、ネットで知らない人が見える場所でのイジメにまで発展しちゃって……」
「それって勝手に顔まで晒されてるってこと?」
「うん。撮られた子は泣きながら何度もやめてって言っていたのに、おもしろがってそれすら動画にしてた。それを見てたら……我慢できなくなったんだ」
握りしめた詩の手が微かに震えていて、爪が食い込んでいる。
「もうやめようよって言ったら、それ以来イジメが収まってほっとしてたんだけど、標的が変わっただけだった」
詩が標的になったのは予想ができる。誰かを守るためにとった行動が、詩自身を苦しめることになってしまったのだ。
「私の場合は、その子みたいなイジメじゃなくて、リセットの対象だったの」
「……どういうこと?」
「アオハルリセットってあるでしょ。学校や部活で表では普通に接してくるけど、SNSとかで、みんなが私のことを外すようになったんだ」
アオハルリセットは、香乃が繰り返している人間関係の整理のことだ。嫌な人がいると、繋がっていたアカウントを削除して新しいアカウントを作成する。そして、そこでは好きな人だけと繋がる。
「最初はフォロワーが減っていくのも、私がフォローされていないのも偶然だと思ってた。でも同じ部の子たちが次々にアカウントを作り直して、明らかに私以外はフォローしてて、自分がアオハルリセットされたんだってわかったの」
個人がするのと集団でアオハルリセットをするのとでは、意味が異なるように感じる。自分の心を守るためにしているというより、単に苦しめることを目的としている。暴言を吐かれたり嫌がることを無理やりさせられる行為とは、また違った形の嫌がらせだ。
「そしたら、だんだん同じクラスの子たちにもリセットされるようになっていって……先生とか親に相談できる内容じゃなかったし、学校ではみんな普通のフリをして声をかけてくるから、尚更怖かった」
SNSでフォローをされない。そんな話をしても、先生は理解を示してくれないかもしれない。私たちにとってSNSの世界は大きくて、たったひとりのフォロワーが減るだけで、なにかしてしまったのかと不安になる。
ましてや何人もの人たちにリセットされる対象になるなんて、無言で拒絶されているようなものだ。けれど形として見えにくいイジメを証明するのは難しい。
「それにわざとDMの捨て垢で〝こんなこと言われてるよ〟ってスクショを送ってくる人もいて。名指しはされてないけど、見る人が見れば私のことだなってわかるような内容だったんだ」
傷つけることが目的としか思えないスクショを送りつけてくるという卑劣な行為に、眉を顰めてしまう。
「日に日にスマホを見るのが怖くなった。でも小学生の頃から仲良かった子もいたし、なんとか耐えてたんだけど……結局その子にもリセットされちゃった」
おそらく私も何度か会ったことのある子だ。昔から詩とよく遊んでいたので、覚えている。
「その子に連絡をしたんだけど、既読無視されたんだ。しかも、私が送ったメッセージのスクショも晒されて、拡散されて、SNS上で笑い者にされてた」
それでも詩は耐えて学校に行っていたらしい。
クラスが変われば、環境も変わるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。
「新しいクラスになって、仲良くなった子にも部活の子がなにか言ったみたいで。SNSの繋がりも消されて、今度はクラスの子たちから無視されるようになったんだ」
かつては友達だった人たちにアオハルリセットの対象にされて、新しいクラスでは無視をされる。詩を傷つけた周囲の人たちに対して痛憤する。きっと中には流されて一緒にやっている子たちもいるだろう。けれどそういう人たちだって加害者のひとりだ。
「でも学校を休むのも、ずっと怖かったんだ」
私も中学生の頃に人間関係が原因で、学校を休みたいと思ったことがある。詩とは状況は異なるけれど、一度休んでしまったらそのまま学校に行けなくなりそうで逃げることすらできなかったのだ。
「なんとか耐えていたんだけど……動けなくなっちゃったんだ」
私が廊下で蹲っている詩を見つけた朝のことを思い出す。
震える手で必死に立ち上がろうとしていたけれど、青い顔をしていて発した声は消えてしまいそうだった。ワイシャツのボタンを留めることすらできず、スカートも長いまま。
詩は精神的にとっくに限界がきていたのに、自分を奮い立たせて学校へ行っていたのだろう。
「教室に入れない人たちのために、別室登校っていうのがあるんだって。先生はそれをお母さんたちに勧めてくるみたい」
「……詩は行きたいの?」
詩は首を横に振って、深く息を吐いた。
「正直学校には行きたくない」
「それなら無理して別室登校なんてしなくていいと思う」
無責任なことを言っているのかもしれない。でも学校へ行くことになったら、詩を傷つけた人たちと会ってしまう可能性だってある。今は詩の心の傷を癒す方が大事だ。
「隣の駅にフリースクールがあるの知ってる?」
「並木町の方にあるやつだよね」
フリースクールは学校へ行けなくなった子たちが過ごす場所。中学の頃、不登校になった同級生がそこに通っていると聞いたことがある。
「お母さんがそこに通うのはどうかって。だけど……まだ外に出るの怖いんだ」
私が想像していた以上に詩の傷は深い。今日こうして私に打ち明けてくれたのも、詩にとってかなり勇気のいることだったはずだ。
「……ごめんね。引きこもりなんて恥ずかしいよね」
涙ぐんでいる詩の肩をそっと引き寄せた。踏み出そうとしているのは伝わってくる。けれど、まだそのための心の準備ができていない。
「そんなことないよ、詩。外に出たくなったら出ればいいよ」
嗚咽を漏らしながら詩が涙を流す。
今まで頑張りすぎた詩が、もう一度歩けるようになるまで、この家が安らげる場所になりますように。私は頼りない姉だけど、それでも詩が辛いときに寄り掛かれるような存在でいたい。
夕飯の買い物から帰ってきたお母さんが、私に抱きしめられるような形で泣いている詩を見て、目を潤ませながら微かに口角を上げて頷く。そして静かにリビングのドアを閉めると、お母さんは詩が泣き止むまでふたりきりにさせてくれた。