【一部】倉敷柚子葉の浮世事情【完結】

肆ー五


「ごめん柚子葉。お母さん、ちょっと気分が悪いみたい……」
 
 何度か咳き込んだ後、結衣ママは部屋に置かれたベッドへと向かったが、辿り着くことなく膝から崩れ落ちた。

 倒れた結衣ママの元に駆け寄り、何度か肩を揺さぶり声を掛けた。

「ねえ結衣ママ!」
「柚子葉、落ち着いて聞きなさい」

 俺の頬に手を添える結衣ママ。
 志恩や志恩のガールフレンド、優月さんや葉月兄さんに視線を送るが、皆んな結衣ママの様に意識を失っていた。
 
「落ち着いてられないよ。どうして皆んな倒れちゃったの」
「それは分からない。でも、この煙が関係してるのかもしれない。だから、煙を吸い込まないように姿勢を低くして、部屋の奥に行きなさい。もしかしたら、皐月が助けに来てくれるかもしれないから」

 俺の体を押し飛ばした結衣ママ。彼女は何度か咳をした後、意識を失った。

「体勢を低くして部屋の奥に隠れる。部屋の奥に隠れていれば、もしかしたら皐月が助けに来てくれるかもしれない」

 結衣ママはそう言ってたけど、俺にはそう思えなかった。
 思っていたよりも煙が部屋に充満してるし、皐月は会食にさえ姿を現さなかった。

「お父さんなんか来るはずない。とにかく、今は結衣ママを運ばなきゃ」

 彼女が言った通りに体勢を低くして部屋の奥へと向かう。
 床を這いずり回るように奥へと向かった直後、俺を捕らえるように何らかの術式陣が体を包みこんだ。

 咳き込みながら陣の光を頼りに周囲を見渡してみる。
 すると、煙の中から一人の成人男性が傍に寄ってきた。

「明神さん?」
「ゴホッ、柚子葉さん。柚子葉さん……」

 会食後だというのに、水族館で出会った時と同じようなスーツに身を包んだ明神さん。
 彼は手を扇ぎながら俺の元へと近づく。
 
「こっちです。声のする方に来てください」
「居ましたか。無事に結界陣に包みこまれたようで安心しました」

 どうやら俺を取り囲むように張り巡らされた結界は、明神さんが施したものだったようだ。

「この結界陣は何ですか?」
「先に館内着の袖で口元を覆ってください」

 明神さんを真似るように袖で口元を覆う。それから俺は、明神さんの方へと視線を向けた。

「覆いました」
「偉いですね。落ち着いて聞いてください。今、私が柚子葉さんの周囲に施したのは、短距離間の転移移動を可能にする”転移結界術”というものです」
「転移結界術?」
「はい。柚子葉さんだけでなく、私達がいる階層の未成年にも施してあります」

 明神さんは煙を払いながら端的に話し始める。
 
 彼の話によると、転移結界術とは肉体を霊力の粒子に変化させることによって、短距離の移動を可能にする術式であるようだ。

「柚子葉さんだけでなく、他の子供たちも手当たり次第に転移させたところです。これは霊縛術を応用した術式ですが、柚子葉さんは霊縛術についてどこまで知ってますか?」
「れ、霊縛術。少しだけなら知ってます」

 明神さんに「霊縛術の事を知っている」と言ったが、何て答えたらいいのか一瞬だけ迷った。
 黄泉の鬼の出現条件が分からない以上、六歳児の俺が知らないだろう事を彼に伝えては不味いと思ったからだ。

 部屋中を漂う煙を吸い込んでしまい、何度か咳き込むと胸が苦しくなった。
 現実だと錯覚するような状況だが、ここは記憶の海の中でしかない。

 何度か咳き込んだ明神さん。彼は俺を取り囲んだ結界に手を添えた後、自分たちに起こっている状況を分析し始めた。

「そうですか。では、霊縛術についての説明は省きます。私たちが吸い込んだ花火の煙には、何らかの妖術や霊術、呪術等の術式が込められていたのだと思います」
「花火の煙にですか?」
「煙だけならいいのですが、そうでない場合は話が違ってきます」
「転移って言ったって、飛ばされた後はどうすればいいの?」
「このケータイを使って、連絡先にある人物へ片っ端から電話をかけてください。私はなるべく、この場に居る人たちを外に運びます」

 結衣ママを肩で抱えた明神さん。彼が部屋から出て行こうとした直後、部屋の扉が何者かによって蹴破られた。

 部屋に侵入してきた人狼たち。彼らは唸り声を上げながら迫ってくる。
 
「なんでこんなところに”化け物”が……」
「怪段の怪異か。柚子葉さんを守りながら祓うのは難しい。貴女は転移後、必ず応援を呼んでください!」

 声を荒げる明神さん。彼は転移結界の術式を発動したらしく、俺の体は指先から粒子化していった。

 眩い光に包まれた後、俺は再び目を開ける。
 すると、目の前には”熱海駅”という文字が記された建物が姿を現した。

 駅の改札やバスと車のロータリーがあるところを見ると、俺が居る場所は熱海駅で間違いないようだ。

「こんな場所まで転移されたんだ。明神さんの霊縛術って凄いな」
『柚子葉童子。あの程度の霊縛転移結界術など、余の妖縛術に比べれば……』

 何の前触れもなく、俺の脳内に問いかける隻夜叉。
 明神さんの術式に嫉妬するように、彼は自分自身の妖縛術の方が勝っていると呟き続ける。

 霊縛術と妖縛術、呪縛術には力関係が存在しているらしく、隻夜叉の呟きが本当であれば、それらは三つ巴のような関係にあるらしい。

「へえ。霊縛術では妖縛術に勝てないんだ」
『その通りだ。だが、霊縛術は呪縛術に勝る術式である。それは、お主のような赤子同然の霊縛術であってもだ』
 
 正直な話、こうやって隻夜叉の気を惹けるのは気分が良かった。事実、志恩を除いた成人男性とお喋りする機会なんて、そうそうない。
 あったとしても、相手は猫屋敷宗一郎ぐらいだ。

『気味の悪い笑みを浮かべるな』
「だってだって、仕方ないじゃん」
『この煩悩女子め。ほれ、明神冬夜に言われた人物へ電話しないのか?』
「ああ、そうだった」
 
 先ほどまで居たホテル程ではなかったが、駅前のロータリーにも花火の煙が漂っていた。
 
 明神さんから渡されたガラケーに視線を送るが、手のひらに握り締められていたのは、鮮やかなピンク色のデコレーションが施された”ゴミ”だった。

「何なのこのキモイ携帯。明神さんの趣味とは思えないけど、仕方ないか」

 折りたたまれたガラケーを開き、待ち受け画面をのぞき込む。
 不慣れながらもボタンの一つを押し込むと、「暗証番号を入力してください」という文字が画面に浮かび上がった。

『どうした。問題でも起こったのか?』

 俺の体から精神のみを幽体化させ、隻夜叉は宙を漂いながら覗き込んできた。
 
 ロックを解除しようと何度かパスワードを打ってみるが、流石に適当な番号では解除されない。

「うん、ロックが掛かってるみたい。どうしよう。これじゃあ明神さんが言ってた人たちに連絡が出来ない」
「貸してみろ柚子葉童子。パスワードは余が解析してやろう。お主はまず、余が現実の世界で与えた”般若の面”を被るが良い」

 彼はそう言って携帯を奪い取り、現役女子高生を彷彿とさせるような速さで番号を入力し始めた。

「え、なんで般若面なの?」
「何度も言わせるな。この煙には、”霊力を消費する”妖縛術式が込められておるようだ。このままだとお主、死ぬぞ?」

 彼がそう言った直後、俺は駅前に漂っていた煙を吸い込み、膝から崩れ落ちる。
 どうやら隻夜叉の話は本当だったようだ。

 体の中から何かを吸い取られていく感覚。いや、何かではない。体から抜けていくのは俺の霊力だった。

 十年振りに味わう死への恐怖。死者の肉体では感じ取れなかった恐怖感が心を支配していき、全身に行き渡った。

「お主を死なせる訳にはいかない。その般若の面には、鬼の血を活性化させるだけではなく、瘴気と化した煙を浄化する効果も秘められておる。状況に応じて形体が変化していくが、柚子葉童子の場合はそのような形に変化したか」

 手のひらの上に赤い般若面を具現化させる。

 朦朧とする意識の中、なんとか腕を動かし般若面を被ることができた。
 機械仕掛けの時計の様に形体を変化していく赤い般若面。どうやら彼が言っていた通り、般若面には瘴気を吸収した後、空気として取り込む能力があるらしい。

 般若面の顎に備え付けられた二つの吸収缶に指先を当てる。
 隻夜叉が言うには、「瘴気は所詮、毒気のある空気でしかない。どんな毒も元を辿っていけば、何らかの術式が関与しているはず」とのこと。

「凄い。こんなに呼吸が楽になるなんて。般若面って気持ち悪いと思ってたけど、以外と便利なんだね」
「当然。人間には使いこなせぬ物だが、柚子葉童子は鬼の血を継ぐ者だからな。それより疑問に感じたことがある」
「なんのこと?」
「お主の母親、倉敷結衣の死亡日時のことだ。童子の母は、二日後の”八月六日”に死亡するのではないのか?」

 凄まじい速さで携帯を操作する隻夜叉。彼は何度か携帯を開閉させた後、待受画面を俺に向けてきた。
 
 確かに彼が言った通り、結衣ママは八月六日に死亡すると言われている。シゲシゲに聞いた話でしか判断できないが、彼が嘘を言っているようには思えない。

 現在の時刻は、夜の十時を過ぎた辺り。今日はまだ八月四日だ。
 結衣ママが死んでしまうという日付は二日後だが、この事件が関係していないとは絶対に思えない。
 
「憶測でしかないが、この火災事件に倉敷結衣の死亡は関係しているだろう」
「うん。俺もそう思う」
「しかし、やり方が派手だと思わないか?」
「まあ確かに変だとは思うけど……」
「柚子葉童子、少しは考えてみろ。一人の人間を殺すのに、こんなに大それた事件を起こす必要があると思うか?」
「規模で言えばそうなるけど……」

 宙を漂いながら胡座(あぐら)をかいた隻夜叉。彼は腰に携えていた一本の刀を引き抜き、コンクリートの地面に突き刺した。

「これは大規模なテロ行為だ。今から千年以上前、余が京の都で行おうとした計画によく似ている」
「なに隻夜叉。あんたってテロリストだったの?」
「童子の理解力に合わせて話を変えているだけだ。その時の話は”余裕が生まれたら”聞かせてやろう。ここが記憶の海であるとしても、気を抜いてはならんぞ柚子葉童子」
「油断なんかしてないし」

 それから隻夜叉は語り始めた。
 彼の話によると、熱海の夜空に打ち上げられた花火には、幻覚作用を働かせる妖縛術式が付与されているようだ。

 打ち上げ花火の光を介する幻術。その幻術の影響を受けるのには、三つの条件が揃っていなければならないらしい。

 隻夜叉は人差し指と中指を立てる。
 
「一つ目と二つ目の条件は、『花火の光を観る事』と『煙を吸い込む事』だ。対象を観ることで幻術の基盤が出来上がり、嗅覚を奪うことが合わさって、『その場に居ない者が居る』ように感じる状態に陥る」
「それは分かってる。結衣ママも意識を失う直前、『煙を吸い込まないようにして』って言ってたから」

 煙の中を歩き続ける隻夜叉。彼は幽体化した左腕だけを空中に残し、持っていたケータイを再び奪い取った。

「この大規模な計画を遂行するには、複数人の協力者が必須である。今回の場合は、花火を打ち上げる人物と煙を町中に散布する者。この二者が揃っていなければならない」
「それで、どうすれば煙は晴れるの?」

 前を歩く隻夜叉に問いかける。

「そうだな。演者の目的は分からないが、この周辺に漂う煙は、”散布者”を祓えば事態は収まるだろう」
「散布者かあ」
「この幻術は所詮、目的を遂げるための序幕でしかない」
「煙が目的を隠すための物だとは理解できた。昔、隻夜叉がやろうとしてた事は何だったの?」

 凄まじい速さで番号を打ち込む左腕。甲冑や籠手を身に付けた彼の左腕は、俺の問いかけに答えるように動きを止めた。

「余がしようとした事か。そうだな、桃太郎がしたことの”真逆”を思い浮かべてみると解りやすいだろう……」

 浮かび上がった青鬼の左腕。彼がそう言った瞬間、俺の体を貫こうとする衝撃波を具現化した左腕が弾き飛ばした。

「何なの……今の――」
「演者がやって来たようだ。その左腕は貸してやる。いや、『今は左腕しか』貸せないの間違いか……」

 煙に覆われていく隻夜叉の全身。彼の体を煙が覆いこんだ直後、隻夜叉の姿は消えていった。
 
 路地に漂う煙を払いながら歩を進める。

 煙の中に消えていった隻夜叉を追っていくと、熱海の観光名所の一つである”平和通り商店街”という文字を記したゲートが目に入った。

「ねえ隻夜叉! 何処に居るの!」

 何度か彼の名前を呼んでみるが、商店街からは何の反応もない。
 
 俺の声が反響していくだけで、彼からの応答はなかった。
 代わりにあったのは、隻夜叉ではなく、”煙を放出する荷を背負い、奇怪な面を被った化け物”の姿だった。
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